日曜日
2112007

幸せのお裾分け

東京の三軒茶屋という街に暮らしていたことがある。

宇都宮の高校を卒業し、すぐに上京して住んだ街。
人生最初で最後の一人暮らしをしたのが三軒茶屋だった。

民家の離れを改造した木造一軒家。
二階の角部屋で六畳一間トイレ付、
風炉無しのボロアパートは家賃3万円だった。
通りに面する一階には、汚いインド料理屋が店を開いていた。
そのため、二階の店子は僕を除いて全てが
冴えないその店のインド人のスタッフたちだった。
深夜営業のレストランで働き、昼過ぎまで寝ている彼ら。
そして僕の隣の部屋からはいつも
なぜか宇多田ヒカルのヒット曲が流れていた。

ある夜、僕は仕事が遅くなって終電を逃したことがあった。
始発までは2時間ほど。ついていないことに、
深夜営業のカラオケボックスで時間を潰すにも
タクシーに乗って帰るにも持ち合わせが足りなかった。

泊り込み、徹夜の企画書き、
赤坂に六本木での付き合い酒。
久しぶりにすべてから解放されて家へ帰れる。
何があるわけでも、誰かが待っているわけでもないが、
それでも我が家へ数日ぶりに帰れるのは嬉しかった。
東京で、慣れない仕事や
別れた昔の恋人との関係にうんざりしていた時期だった。

しかたがなく、僕はトボトボと夜の246を
渋谷からアパートまで歩くことにした。
正確な距離は分からないが、
当時乗っていた単車を飛ばせば
10分も掛からない距離だったから、
酔っていても歩けない距離ではないと思ったのだ。
それに歩いている方が、
どこかで時間を潰しているよりましな気がした。

どれくらいの時間がかかっただろうか。
家に着いた頃にはうっすらと朝日が見えていた気がする。
軋む急な階段を上り、鍵を開けて部屋の扉を開ければ、
数日前の朝、寝坊して慌てて出て行った時と
変わらない状態の六畳一間が覗く。
敷きっ放しの布団に倒れこむように一直線。
枕元にあるリモコンを手に取り
民放の朝の情報番組で
今から自分が寝て過ごそうとしている一日の天気を調べた。
晴れない心を抱えて寝ているだけの一日でも、
太陽くらいは出ていて欲しかった。

「トントントン」

目下可愛いだけが売りの新人アナウンサーが、
慣れない口調で東京の天気を伝えている声に
薄れ行く記憶の中で耳を傾けていたら、
誰かが僕の部屋をノックした。

こんな早朝から誰だろうか。
近所付き合いなどほとんど皆無の
地方出身の若者が暮らす部屋を
朝から訪ねる人はそうはいない。
家賃ならば珍しくその月は期限どおりに払っていたし、
大学に通う別れたばかりの恋人は
期末試験前で僕とのごたごたした関係よりも
アメリカ文学の課題提出に必死のはずだった。
まさか、以前お茶をぶっかけて帰らせた
新聞の勧誘屋の兄ちゃんが、
火傷の慰謝料でも求めて
弁護士を送り込んできたのではあるまいか。

どちらにしても、こんな朝から
人の家を訪れる相手が常識を持ち合わせた、
幸福の使者とは思えない。
無視してしまおかと思案していたら、
二度目のノックがあり、
続いて外国人特有のイントネーションで
「スミマセン」という声が聞えてきた。
片言の日本語を話す弁護士はさすがにいないだろう。

好奇心が眠気を飛び越えてしまった僕は、
テレビを消して立ち上がり、
初めから鍵など閉まっていなかった薄っぺらの扉を開けた。
そこには、一階の店のウェイターが着る
エプロンを身に着けたインド人らしき男性が、
大きなダンボールを重たそうに抱えながら
直立姿勢で立っていた。

隣の住人さんなのだろうな、と僕は思った。
しかし、彼とは話したことはおろか、
ほとんど見かけたこともない。
そんな相手に僕は上手く挨拶ができず、
彼の目を訝しむように見つめてしまった。
すると彼は、抱えていたダンボールを
僕のほうにゆっくりと差し出しながら
早口の英語で何かをいった。
彼の喋ったのがなんとか英語だと理解できたのは、
中学校で習った「this」という単語を
かろうじて聞き取れたからだ。
正確な言葉は分からなかったが、
彼がそのダンボールを僕に渡そうとしているのは
ジェスチャーで伝わった。

「あっどうも」

栃木弁しか喋れなかった僕は、
当たり前のように日本語で答える。

僕はダンボールを受け取って、
そこに張られていた宅急便の宛名書きで
珍しい来訪者の意図が分かった。
ダンボールには田舎の母の懐かしい文字で、
僕の名前とアパートの住所が書かれていた。
どうやら彼は、僕宛の荷物を預かってくれていたようだ。

めったに電話をかけても来ず、
実の姉に娘が生まれても
顔を見に帰ってくることもない親不孝な息子に、
田舎の母親はしょっちゅう荷物を送ってきた。
中にはきまって日用品が詰まっていた。
それらの大半は東京でだって買える代物だった。
それでも、近所のスーパーで安売りしていたからとか、
九州の祖父母から届いたお米だからといっては
ダンボールに荷物をつめて送ってくる。
ありがたいのだが、東京で金銭的にも精神的にも
とにかく自立するために必死こいて生きていた僕には、
そんな母親の優しさが、
今の自分が一生懸命築こうとしているものを
根底から破壊しそうで鬱陶しくもあった。

気がつくと少し手持ち無沙汰の様子の来客は、
今度は僕に謝るように何度も頭を下げはじめた。
配達日のところを指差していた。
どうやら、本来は二日前に配達されていたものなのだが、
僕に渡すのが遅くなって申し訳なかったと
彼はいっているようだった。

仕事で家を開けて
荷物を預かっていただいたのはこちらの方だ。
だいたい宅配便を送ったということを
伝えようとした実家からの電話に、
忙しいからとこたえずにいたのは僕の問題だった。

僕は東京でいきがってわがままに生きているだけの
幼い自分がなんだか無性に恥ずかしくなって、
頭を下げる彼に向かって、一緒に何度も頭を下げていた。

「すみませんでした。すみませんでした」と。

彼はやがて自分の部屋に戻っていた。
扉が閉まる音がして、
少し経ってから宇多田ヒカルの
ファーストアルバムの一番目の曲が聴こえてきた。

「クール宅急便」とシールの張られたダンボールの中には、
四つの大きなメロンが入っていた。
お互いに傷をつけないようにと
母が空いたスペースに挟み込んだ二週間前の新聞を取り外し、
それを両手で挟むようにしてしわを伸ばしてから、
端から端までゆっくりと読んだ。それは社会面の記事だった。

一人暮らしのアパート。
ビールにおつまみ、買いすぎたコンビニの弁当くらいしか
入れるものなどない小さな冷蔵庫に、
メロンが四つも入るはずはなかった。

ちょうど今日明日が食べごろの
熟れたメロンを腐らせるのは忍びない。
二つのメロンを抱えた僕は、
裸足のまま部屋を出て、
相変わらず宇多田ヒカルのヒット曲が流れ続けている
隣の部屋の前にメロンを置いた。
それから二三度扉をノックして自分の部屋に戻った。
息を殺して先ほどの彼の部屋の物音に耳を立てた。
音楽が一度止まり、
彼がドアを開ける音がして少したってから、
さっきよりも少し大きな音で音楽が流れ始めた。

東京で他人と本当に心が通じたと思ったのは、
「ありがとう」なんていわれたら
こっ恥ずかしくてたまらない年頃だった僕の気持ちを、
大人な彼が汲んでくれたのがわかった
その時が初めてだったかもしれない。

人からもらった物や利益の一部を
他人に分けることを「お裾分け」という。
「裾」は、物の端、端っこの一部分の意味からきているらしい。
自分で望んだ結果とはいえ、
僕は今だに大して金になりもしない文章を書いている。
想像力を掻き立てられ、ドキドキと期待を抱かせる、
そんな文章を書けたら素晴らしい。
いつだって不幸よりも、幸福をお裾分けしたい。
(裏、デザインのビジネス・終わり)