日曜日
2112007

どらやき四つ

マルクスとその盟友エンゲルスは著書「資本論」の中で、「人間の意識が彼等の存在を規定するのではなく、彼等の社会的立場が、彼等の意識を規定する」と述べている。
 
どういうことか?
 
例えば、同じ会社に働いている二人の元同級生がいるとする。一人は社長に、一人は労働組合の書記長になった。彼らが学生時代、どれだけ馬のあう中であったとしても、彼らの意識は変わらざるをえない。社長は社員にストライキをやってもらわれては困るし、組合のトップとしては、ストライキは労働条件の改善をもとめる正当な権利と考える。

個人的には主義主張の話は嫌いではないが、この話のポイントは社会制度の優越ではない。マルクスの言う、「立場による意識の違い」の話だ。

僕はライターである。僕の考えるライター業とは、取材をして書くということである。もちろん、現場で一眼レフデジタルカメラと格闘することも多々あるのが今の僕の現状だが、それはあくまで取材して書いたものに添える「絵」をついでに撮っているだけのことであり、大まかに言えばそれすらも取材の範囲内である。まして企画が大きくなれば当然「カメラマン」が受け持つべき仕事であって、僕の本業ではない。どんなにパシャパシャと気持ちよく写真を撮っていても、僕に撮影依頼が舞い込みはしないのである。
 
 さて、そのライターである僕が、今度はプロのライターであるがためには「お金を貰って書く」という作業に従事しなければならない。当たり前の話だが、今しばらく聞いてもらいたい。
 
何かを取材をして文章を書くとする。明け方まで校正に校正を重ねて入稿原稿を書き上げるのだ。すると、夜明けの時刻に電話が突然鳴り、受話器の向こうで取引のある銀行の行員が「先ほど書き上げた原稿に対する原稿料がただいま振り込まれました」と教えてくれる。

こうなってくれたらなかなか素敵なのだが、現実はそう甘くはない。
 
つまり、取材をして書いた原稿であっても、お金が支払われないこともありえるということだ。世間はそれを「趣味」と呼ぶ。作品の優劣はこの際置いておいて、それがペイされるかどうかがプロとしては非常に大きな意味を持ってくる。
 
僕の書いた原稿にお金を払う人や組織が存在する。だから僕はプロのライターなのである。プロだから偉いと言っているのではない。ただ、純粋に資本主義社会ではどんな職業でもお金を払われることが「プロ」であることのボーダーラインになるというだけ話だ。だから逆に、今日のプロが、明日のアマチュアになることも十分ありえるのだ。
 
そこで今度はプロに支払われるべきギャラの話になるのだが、これがややこしいようで案外シンプルなのであると今回改めて考えてみて分かった。
 
僕のような無名のライターの場合、原稿料を決めるファクターは大抵、①文字数(又は原稿枚数)、②掲載されるページの全体における価値(巻頭カラーページと白黒ページでは雲泥の差が出る)③企画代、④人脈、である。そしてこれが有名作家になれば、ここに⑤ネームバリュー、が加わる。挙げてみるとたかだか4つか5つ程度なのである。
 
例えば、レストラン取材をして原稿を書くことになったとする。担当編集者は「原稿用紙で4枚。写真10枚。カラー特集ページだから」みたいなことを伝えてくる。原稿用紙はコクヨの400字を基本にしている。これが6枚で字数は2400文字。掲載ページが、カラー特集ページだから、巻頭ではないにしろ原稿料が微妙にアップする。ここでは1枚5千円、計3万円としよう。そこに写真代1万円をプラスする。
 
今回の仕事は、僕の持ち込み企画だったとする。すると、企画代がプラスされる。1万円。チャリーン。
 
最後は、今回の依頼主との関係性によっては、「いつも厳しい締め切りで頑張って貰っているから今回はページ7千円でお願いします」と言われるかもしれない。
 
締めて6万2千円のギャラの仕事だ。
 
万が一にもこの仕事が、故池波正太郎先生が某週刊誌で連載されていた都内のレストラン紹介であったならば、ギャラ計算ははめ込む数字が大きく変わるのは言うまでもない。ただしそれでも、基本の公式が大きく変化するとは思えない。

さてここでギャラの話を詳しくしたのは、この値段が「妥当」なのかどうかを考えてもらうためである。
 
労働者であるライターは普通、原稿料が「安い」と考えている。しかし、雇い主である編集者は「これが限度」と考えているものだ。マルクスが「資本論」の中で述べる現象である。
 
先ほどの6万2千円の仕事だが、これを労働時間の実数で割れば、時給が分かる。僕は基本的に安い原稿料を時給に換算して無駄に落ち込むのが嫌いなので、最後の計算は避けるようにしているが、ここで出される数字はかなり残酷であることが多い。
 
好きで始めて今も続けている仕事である。愚痴るつもりは毛頭ないが、大卒の他のプロフェッショナルに比べると時給に直した単価のなんと安いことか。ライターのギャラはアメリカも安いが、日本はもっと安い。
 
「好きじゃなきゃやれない仕事だよ」と、今はコロンビア大の大学院でジャーナリズムを教えながら社会派記者として活動している僕の担当教授だった恩師が、授業中にポツリと言ったのを覚えている。
 
ジャーナリストの社会的意義やその仕事の質と、ギャラはあまり関係しないのである。世に有名なウォーターゲート事件をすっぱ抜いたのは、高給取りのホワイトハウス担当記者ではなく、ワシントンポストが雇っていた記者の中ではもっとも給料の低い二人の若い記者であった。共和党のPR担当者の給料が当時どれくらいであったかは知らないが、少なくとも二人の給料を足したよりは貰っていたはずである。それでも二人は社会に震撼をあたえ、当時世界でもっとも力のあった大統領を退陣にまで追い込んだのである。
 
記者の社会的立場によって規定された意識が、権力からの脅しや贈賄を跳ね除ける力になった。そして、権力の側にいた者たちは、己の保身のために犯罪を重ねたのである。ここにもマルクスの考えが見え隠れしている。
 
ライターの仕事には時に、恐ろしいほどの権力が宿る。そして、ギャラはそんな時、あまり多くの意味はなさない。
 
ギャラは高いにこしたことはない。しかし、本当に良い仕事をする時というのは、往々にして、ギャラなどを意識はしていないものだ。

ワシントンポストの二人の場合、彼らの著書を読む限りでは、ウォーターゲート事件のキャンペーンを展開した当初に起きたワシントンの高官による厳しいアンチキャンペーンに凛として二人をかばい、信じ、精神的なサポート惜しまなかった編集主幹の存在が大きかったようだ。同主幹は「We stand by our story.」という声明を出している。
 
安いギャラで高いモチベーションを保ちつつ、質の高い仕事を続けるのは厳しい修練が求められる。そして、埋めなければ成らない意識の差を考えれば、仕事を依頼し、良い仕事をしてもらうのはさらに難しいと思う。