月曜日
6092008

第十八章「虹」

「It takes both rain and sunshine to make rainbows.」
そう言って、キャリーがどうだいい言葉だろうといった顔で僕を見つめている。

何年もニューヨークに暮らし大学へも通いながら、
英語が一向に上達する気配すらない僕を見てきたキャリーは、
ある一時期、そのことを本気で心配するようになった。
人の顔を見れば、英語のことわざを一つ二つ口にして、
「次回までにはちゃんと覚えてくるように」などと言ったりするのである。
おかげで、上記のような、まぁ日常生活ではまず使うことのない
レアなことわざをたくさん覚える羽目になった。

しかし、以前なら僕の発音の悪さやでたらめな文法を笑い飛ばしていたくせに
いったいぜんたいこれはどうした変りようなのだろうか。
友達から小言を言われているようで、
ちょっと邪魔臭い気持ちもあり、
彼の変りようを訝しんでいたら
ある日、簡単な答えに気がついて可笑しくなった。

当時、キャリーには娘が生まれたばかりだった。
もしかしたら彼は彼なりに「父親」になろうとしていたのではないか。
たぶん、そんな彼の中の内なる変化が勢い余って
本来は影響のでるはずのない僕との関係のところにまで及んでしまった。
きっとそういう事だったのだ。

「博徒も人の子だったわけか」。

僕なりの仮説を語り終えると、ジョンがそんなようなことを言って小さく笑った。
相手の話や意見を前にして、
直には肯定も否定もせずとにかく最後まで耳を傾ける。
エグゼクティブの連中の中には知らない奴の方が多いだろうが、
全米有数の大学院を奨学金で卒業しているジョンはとにかく切れ者である。

「ちなみに、英語ではこんな状況をどんなことわざで言い表すか知ってるか?」
面白い悪戯を思いついた子供のような顔でそう言いながら
ジョンはさらに顔をほころばせていた。
うーん。前言撤回。
切れ者だが、同じ分だけ嫌味なやつでもある。

それからその夜、
僕らは生まれたばかりの親友の赤ん坊の元気な成長を願いつつ
新米パパの奮闘を酒の肴にしこたまビールを飲んだ。
ちなみに、雪のように白い肌に
青く大きな瞳の娘をキャリーはVieenaと名づけていた。
日本人の僕にはどうにも発音しづらい名前である。
酔うとさらに難しくなるので困る。まったく。

それにしても、友の成長は時に自分自身のそれよりも嬉しいものだ。
少なくとも、僕やジョンには当分子供はおろか結婚の予定すらないわけで
ここは出世頭のキャリーの成長を
勝手に疑似体験させてもらうことになりそうなのである。


それは、キャリーの英語特訓が激しかった冬の出来事だった。
その日、僕はフランクの指示でマンハッタンのルートを担当していた。

雪のほうは二日前に降り止んでいたが、
路上にも歩道にも踏み固められた雪が前の晩の冷え込みで氷へと変っていた。
四輪駆動の除雪車のハンドルを握るのが
腕のいいドライバーであっても凍った道の運転はかなり危険だ。
その上、平日のマンハッタンは人の出が多い。
僕はいつもより慎重な作業でダウンタウンの現場を回っていた。

すると、携帯電話が鳴った。キャリーからだった。
連絡方法が無線ラジオじゃないところからして彼の慌てぶりが伝わってきた。

そん日、母子の定期診断で
マンハッタンの大学病院を訪れるため、
キャリーの奥さんのクリスチャンが運転していた乗用車が
軽い接触事故を起こしてしまっていた。

道路状況も悪かった上に事故事態が大したことがなかったため、
その場で過失は半々、
お互いの修理費はお互いで持つということで示談が成立していた。
保険屋を介入させるよりも
車はベースに持ち込んでベンに修理してもらった方が安く上がる。

問題はしかし運転していたクリスチャンのほうだった。
もともと慣れないマンハッタン内の運転に加えてこの悪路、
そこにきて生まれたばかりの赤ん坊を乗せていての事故である。
大したことはなかったとはいえ、そうとうに気が動転してしまったらしく
事故現場から病院まで
それ以上は怖くて運転を続けることがどうにもできなくなってしまったのだ。

運悪く、その日は朝からフランクは所用でベースを離れていた。
そうなると、事実上賭場を仕切っていたキャリーが
突然持ち場を離れるわけには行かなくなる。
誰かがキャリーに代わってクリスチャンのところに行かなければならない。
ジョンはロングアイランドで遠すぎる。そこで僕に電話があった。

それはボスの指示である以上に、親友の家族のピンチ。
僕は喜んで助けに行くことにした。
急遽、ダウンタウンの担当現場をシャベル担当のアミーゴたちに任せ
クリスチャンの車が立ち往生しているミッドタウンへ向かった。

キャリーに教えられた住所付近に近づくと、
シルバー色したHONDAのSUVが九番街でエンジンを切らずに停車している。
後部マフラーからは排気ガスが外気で冷やされて白く上がっているが
なんだかその光景が心なしかさびしげだった。
その脇を清掃局の巨大な除雪車が路上にへばりついた氷に手を焼きつつ
めいいっぱい下げた鉄のスコップでアスファルトまで剥がす勢いで
火花を飛ばしながら突っ走っていく。

僕はトラックをSUVの後ろに止めて車に近づいた。
左前方に目立つ引っかき傷があった。
フロントバンパーも少し凹んでいるようだった。

僕に気づき窓を開けようとしたクリスチャンは動揺のためか
ドアの鍵をロックしたり開けたりして、
思うようにパワーウィンドウを下げることができない。
僕はできる限り大きな笑顔をみせつつ
運転席のドアをゆっくり開けた。

「大変だったね。二人とも大丈夫?」

つい先日、キャリーの家で夕飯を食べた時に
皆でくだらない冗談に大笑いした時とは別人のように
クリスチャンは意気消沈していた。
僕はいったん自分のトラックに戻りキャリーに電話を入れて状況を説明してから
自分のトラックはそのまま路肩に留め置き、クリスチャンの車に戻った。

後部座席のチャイルドシートにはヴィエナがすやすやと眠っていた。

できる限り明るい声をかけて、
クリスチャンを後部座席に座らせてから、
ゆっくりと病院へと運転していった。

後でトラックを取りに帰ることを考えると二度手間なのだが、
僕のトラックが先導しクリスチャン自身にこの車を運転させて
後ろついてこさせられる様子ではなかったからだ。
赤信号で止まった時に、僕は自分の電話からフランクの家に電話をかけた。
フランクの奥さんのジョージャットに繋がると
簡単に状況を話してから電話をクリスチャンに渡した。
ジョージャットの声に少し安心したのかクリスチャンの瞳からは
大きな涙がポトポトとこぼれだした。

病院へはかなりゆっくり運転したが、15分ほどでついた。
僕は人生でこの時ほど、緊張しながら車を運転したことはないかもしれない。

でもそれからが大変だった。
病院の中で二人に付き添っていると一時間ほどでジョージャットがやってきた。
これで一安心かと思ったら、今度はそこに、
フランク一家と付き合いの長い友人知人が現れること現れること。
新しい誰かが現れるたびに、
僕は苦手な英語で事故の状況やキャリーが不在なわけなどを
一から説明しなければならなかったのだ。
ものの数時間でその数はゆうに10人を超えていた。ほとんどが女性。
そしてその輪の中心にクリスチャンがいた。
本当に、イタリア系は横の関係がタイトである。

そんな様子を遠巻きに眺めている僕の脇に、
いつ現れたのかキャリーが所在無さそうに立っていた。
どうやらフランクはジョージャットの怒鳴り声一発で
所用を途中で引き上げてベースに戻ったようだ。

僕が口を開く前にキャリーがつぶいた。

「駄目な男だな、俺は。父親失格だよな」。
そう言ってからゆっくりとクリスチャンのほうへと歩いていった。

この悪天候の中でクリスチャンが赤ん坊を連れて
病院へと向かうとキャリーが知っていたとは思えない。
クリスチャンの両親は父親が蒸発してしまったために
彼女が小学生の頃に記録上の離婚をしている。
そして彼女を自分ひとりで育てようとした母親は
離婚直後に交通事故にあって亡くなっているのだ。
クリスチャンと彼女の弟は同じ里親の元で育てられている。
キャリーは普段、可能な限りクリスチャンが車の運転をしないですむようにしていた。

そして病院へと向かう車内で、ジョージャットと喋るクリスチャンは
キャリーのさっきの台詞と同じことを何度も口にしていた。

「私、母親失格ですね」と。

キャリーが病院に現れたのに気がついて
クリスチャンの抑えていた涙がどっと溢れてきた。
その姿に安心した様子のジョージャットが今度は僕の方にやってきた。
「ありがとう。ご苦労様」とジョージャットが母親の顔で小さく笑顔を見せた。

きっと親にふさわしい人間なんてこの世には一人もいない。
親になったこともなければ、親を失ったこともないけど
ジョージャットの笑顔を見たらそう思った。
みんな、どこかで失格しているはずなのだ。
それでも、何とか折り合いをつけていくしかない。

キャリーが教えてくれたじゃないか。
雨と太陽があって虹が生まれるんだと。


(続く)