« まず | Main
木曜日
4262007

えっ、鬼が笑う???

本当に突然ですが、
プラットフォームではこれから秋までの数ヵ月間、
2008年カレンダーのデザインを考えることにいたしました。
なんで秋までなのかっていうのは
まぁいろいろ大人の事情があるからってことなんですけど、
ただここにきて、「いまいちプラットフォームなるサイトの
やりたいことがわからないなぁ」というかたが多数おられるようなので、
ほんならひとつ、
プラットフォーム発のカレンダーが出来上がっていく中で
一緒に考え、共に悩み、喜びを共有することで
なんとなく僕らがこれからやろうとしていることを
感じてもらえたらなぁ、なんて思っているわけです。
目指すべきは、「いまいち」から「なんとなく」への脱皮ですね。
それを秋までにってことでしょうか。
ではさっそくですが、「カレンダーってなによ」、
ってあたりから「鬼が笑う、カレンダーのデザイン」
のはじまりはじまり。パチパチパチ。

*ここまでで新プロジェクトの紹介コーナーは終わりです。
っで、ここからさき、暴走ライター佐藤の房総半島思い出の旅的雑文です。
プロジェクトの本筋や今後の発展とはほとんど関係ありませんので
ご了承ください。


「カレンダー」


千葉の海沿いの街に暮らしていた母方の祖母は
リヤカー引きの行商をしながら
女手一つで子供四人を育て上げた人でした。

幼心にも、そんな祖母は気丈な女性に映りました。
例えば、祖母はお酒に強い人でした。
機嫌がいいと、祖母は朝からだろうと
コップになみなみとついだ日本酒を飲んでいました。

それでいていっさい普段の姿勢が崩れないのです。
当時、僕の通っていた小学校は繁華街の近くにあったため、
登下校の途中で酔っ払ってつぶれて朝を迎えた会社員や
昼間から千鳥足で徘徊する正体不明の大人たちを
日常的に目にしていました。

ですから酒をどんなに飲んでも
ちっとも酔ったそぶりを見せない祖母に、
内心、僕はこの人が飲んでいるのは
ただの水なんじゃないかと疑っていたほどでした。
それも、お正月の日に、
酔った親戚のおじさんたちにあおられて
調子に乗って口にした祖母のコップに
人生初の二日酔いを味あわせてもらってからは
考えを改めるようになったのですが。

祖母はまた気の強い人でもありました。
相手が誰であろうとも、
祖母がひるんだ姿を僕は
見たことなどありませんでした。
 さすがに僕の知っている祖母は
そこそこ高齢でしたから、
彼女が誰かと取っ組み合いの喧嘩をなんかを
しているところは見たことはありませんが、
彼女の気の強いところは確実に一人娘の僕の母へ、
さらにそこから同じ血が僕の姉へと、
脈々と受け継がれていたようなのです。

なんせ我が家の二番目の姉は、
僕が生まれてきた頃にはすでに、
保育園で上の姉をからかっていた悪がきの背中に噛み付いて
どんなに説得してもいっこうにはなそうとしなかった
という逸話をもっていた人です。
おかげで弟の僕は、何度姉に、
「遊んでもらっている」うちに腕をぬかれたことでしょうか。

話がちょっとずれましたが、
我が家の女性の伝統的な気の強さの根源こそが
千葉の祖母にあったことは
親戚一同だれもが認めるところだったのであります。

さて、昔の家にはよく、
仏壇を置くためのスペースが
壁をぶち抜いて作られていたものですが、
祖母の家にも小さな仏壇が、
「居間」と呼ばれる一家団らんの部屋にありました。

そして仏壇がおさまっている壁の脇の柱には、
近所の酒屋さんがおまけでくれる
日捲りカレンダーがかけてありました。
その何の変哲もない日捲りカレンダーを
僕がいまだに覚えているのには訳がありました。
当時、たびたび夏休みを祖母の実家で過ごしていた
僕ら子供たちのあいだには、
仏壇の日捲りカレンダーは
おばあちゃんが捲るものという
暗黙の掟が存在していたからです。

僕らが訪れる時の祖母の家には
大人五人、子供七人にくわえて
ブタ、鶏、猫、いたち、ネズミなどなどが
下町の住宅街の一角で同居している状態でしたから、
はっきりいってプライバシーだの個人の持ち物だのといった
西洋文化的な明確な境界線などは
まったく存在しない世界だったわけです。

しかも居間のガラス戸の向こうには
祖母の営む雑貨屋(いまだにあの店はいったいなに屋だったのか
という議論が僕と姉たちの間では持ち上がるほど、
何でもかんでもとにかく売っているお店でした)が
営業中だったものですから、
こちらの事情なんか関係なく近所のおばちゃん連中が
野菜や洗剤を買いにくるわけです。
今思い出しても祖母に家は
本当に年中賑やかなところでした。

また、この家にはトイレなんてこじゃれたものはなく、
「便所」としか呼びようのない
ものすごく暗い小部屋がありました。
そして便所の鍵はなぜか年中壊れていました。
そのため寝ぼけてノックを忘れてドアを開けると
新聞のテレビ欄を読みながら用を足している
従兄弟のお兄ちゃんに出くわしてしまうなんてことも
あたりまえにおこっていました。

さらに傑作だったのは、
この家の TV のチャンネル争いに関する思い出です。
祖母の家では毎晩、
数分ごとにかわる覇権争いの結果によって
野球中継、大河ドラマ、アニメ、 コマーシャル、
歌謡番組とチャンネルが変化するのです。
核家族で気の弱い一番上の姉なんかは
世にも珍しい「スイッチ酔い」なるものかかってしまい、
家に居て、気分が悪くなるなんてこともたびたびでした。

こういう場合大抵は、祖母が最後に
「もめるんなら NHK にしておきなさい」と一喝することで
「陶芸の街で頑張る若者のドキュメンタリー」
みたいな誰も観たくなんかない番組が
むだに流され続けることになったわけです。

これだって別に、祖母が NHK が好きだったから
という話ではあれませんでした。
たんに「 NHK には金払っているんだから」という
祖母なりの商売人根性に強く起因したことだったのです。
そんな混乱しきった世界にあって、
仏壇の横の日捲りカレンダーだけは完全なる聖域として
誰も手をつけることはなかったわけで、
当時の僕にとって、
それはとても不思議なことでした。

今思えば、あの何の変哲もない日捲りカレンダーは、
老いて頭に白いものが混ざり始めてはいても、
家族の頭としての威厳に
些かの衰えもかんじさせなかった祖母の、
強さと尊敬の象徴そのものだったのかもしれません。

そんな、きっととっても深い意味のあった
としか思われてならない、
おばあちゃんの日捲りカレンダーなのですが、
当の本人は結構無関心な様子で、
日捲りなのに二三日分がめくられておらず
月曜日が週に三日続くなんてことがあったと思えば、
電話の用件がかさんだのでしょう
ノート代わりに明後日の分までカレンダーがめくられている
なんて雑な扱いを受けてもいたのでした。

あれはめずらしく、お正月を千葉の実家で迎えるために
母に連れられて祖母の家に帰省した時のことでしたから、
僕がまだ小学校の低学年の頃の出来事だったと思います。
暮れの千葉の家には母方の親戚が大勢集まっていて、
正月に食べるお餅を朝からみんなでつくっていました。

本来、餅は正月があけてからつくものなのでしょう。 
しかし祖母は例の雑貨屋を一年中開けており
年が明けてから商売用として売る分のお餅や、
近所さんやひいきのお客さんに配るため、
ちょっとフライングしてでも
大晦日の朝に餅をつかなければならない
事情があったわけです。

実直な勤め人の息子として
それまでの人生、
硬くなって小さく切られているお餅しか
見たことも食べたこともなかった当時の僕には、
熱々の湯気を発しながら次から次へと出来上がる
つきたてのお餅というものが
とっても魅力的に映ったのはいうまでにもありません。

しかし、ついつい食いしん坊のむしに駆られて、
お手伝い途中の子供たちが
「食べて食べてよ~」と
誘っているような真っ白なお餅さんに
「一つくらいいいよね」と手を伸ばそうとすると、
どこでこちらの様子を窺っていたのか
電光石火のごとく飛んできた祖母に、
ビシーンっと手をはたかれたものでした。
そして祖母のはなつ一言が
「ご先祖様にお供えするのが先だろ!」
というものでした。

僕の母は、当時から熱心なクリスチャンで
我が家では先祖にお供え物をする習慣がなかったうえに、
「本当に怖いのは幽霊なんかよりも人間だ」という
超現実主義者を母に持った僕は、
この祖母のありがたいお説教に対して
死んだ人はお餅なんか食べられないのにと思いつつも、
鬼の形相でこちら睨む祖母に、
「本当に怖いのはおばあちゃんだ」なんてことは
死んでも口にはしませんでした。

長いお説教が終わると、
祖母は綺麗なお皿を一枚出してきて
できたてのお餅を二三個載
居間の仏壇にお供えをし、
両手を合わせて熱心に念仏を唱えてはじめました。

結局、くたくたに疲れた僕らが
ようやくお餅を口に出来たのは
すべての準備が終わった大晦日の夜でした。
仏壇に供えられた朝のお餅は乾燥して
カチカチになっていました。
その横では、気の早い祖母が、
数日前から元日にあわせて捲ってしまった
真新しい日捲りカレンダーが
一日早い正月を祝っていました。

食べ物の恨み辛みというのは凄いものです。
僕は生前の祖父には会ったことがないのですが、
未だにお餅を食べようとすると、
あの大晦日の朝、
空腹と怒られた悔しさが混ざりあって
恨めしい気分で睨んだ仏壇に飾ってあった、
どこか気の弱そうな笑顔で写真に写る
祖父の若い頃の顔を思い出すのです。

不思議なもので、その記憶の中で、
両手を合わせ、
一生懸命念仏を唱えている祖母の顔は
どことなく笑っているのです。

母の影響でクリスチャンになった僕の家には今も、
仏壇はなければ、念仏を唱える習慣もありません。
遠い異国の地に暮らすようになってからは、
正月気分を味わうことすらもなくなりました。

それでも、ピリッと寒い冬の日に、
懐かしい思い出の味を楽しむ時だけは
今はもう亡くなってこの世にはいない
祖父の優しそうな顔と、
祖母の不思議な笑顔に再会するのです。

それが僕にとっての
大晦日であり一日早いお正月なのです。

Reader Comments (1)

なんだかいいお話ですね。笑顔で読んでしまいました。私も今は亡きおばあちゃんを暖かく思い出しました・・・。

4月 26, 2007 | Unregistered Commenter

PostPost a New Comment

Enter your information below to add a new comment.

My response is on my own website »
Author Email (optional):
Author URL (optional):
Post:
 
Some HTML allowed: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <code> <em> <i> <strike> <strong>