飛び出したチョロQには届かなかった壁すらも吹き飛ばしてしまうエネルギーがあると言っても言い過ぎということはないはずなのだ。
金曜日, 4月 4, 2008 at 9:46午後 私はね、マスター、
最近こんなふうに思うわけ。
時として私たちの前に高くそびえて行く手を邪魔する壁というのは
私たちが壁のその先にあるものを
どれだけ真剣に欲しているかを照明するために存在するんだって。
マスター、私はもうつくづくそう思うわけ。
ねぇマスター。聞いてる?
私たちの身の回りで私たちの人生を支えてくれている
多種多様な物たちには、
そこに存在する理由みたいなものが
おぼろげながらもあるはずなのよね。
わたしの父は建築家で、彼は大きなビルや住居を描いてきたのよ。
そこには具体的だったり非具体的だったりしても
ちょんと使う人や使われる目的みたいなものがあって、
だからこそそこに価値も生じるわけなのよね。
そういうシステムみたいなものが、
どうやらこの社会には通念としてずいぶんと前から構築されているらしくて、
お陰で父は月末になると
家族五人が食べているだけの稼ぎをもって帰ってくることができたわけでしょ。
私がひもじい思いをせずにすくすくと成長することができたのも、
考えようによっては全てのものに存在価値があるっていう、
そんな抽象的な事実のお陰なのよね。
二年位前の冬のことなんだけど。
いえ、本当はもっと具体的に覚えているの。
あれは十二月のクリスマス商戦真っ只中のとある金曜の夜だった。
その夜、わたしは銀座のとある高級ブランドのお店で、
一組のカシミヤの手袋を買ったのよ。
当時の私はまだ築地でOLをしていたから、
それはなかなか贅沢な買い物だったの。
何を隠そう、私は基本的に手袋というものをしないですむのなら、
できればしないですませたい側の人間なのね。
カシミヤの手袋を購入する以前に持っていた手袋といったら
社員旅行で一度だけ行ったスキー旅行の時に買った
一組だけというありさまだったくらい。
だからその日だって、別にふらっと時間つぶしのために立ち寄ったお店で、
手袋を買う予定などまったくなかったのよ。
それなに、私、
お店に入って左のショーケースの下に
さりげなく並べられていた濃い茶色の手袋に出会って手に取った瞬間、
それを買うことに決めていたわけなの。
迷いなしって感じに。
つまり、なにが言いたいかというとね
私がその日、カシミヤの手袋を買ったのには、
具体的な一つの理由があったからである、ということ。
それはというのは、最高に肌触りの良いその手袋をつけて、
いつか、大好きなあの人の手を握りたいと思ったのね。
そしたら、寒さにかじかんでいた彼を
すこしはハッピーにできるんじゃないかなって、
結構真剣に思っちゃったのよ。
本当に、たったそれだけの酔狂な理由なの。
あえて値段は言わないけどね、高かったのよ。(笑)
しかも、結局、偉そうな理由で買った手袋は
当初の目的を果てせずじまいで。
そろそろカシミヤの生地が伸び始めてきているし。
そんな手袋君を前にすると、
正直あまり自信をもって言えることではないのだけれどね。
それでも私は、ロマンとか夢とかいったものが、
なんというかこうスケールの大きななにかでなければいけないとは
どうしても思えないのよね。
少なくとも、あの手袋には、確かな存在理由があって、
そこにわたしは小さいけれども確かなロマンを感じ夢をみていたわけで。
っていうか、気がつくと、過去形の話になってない?
ねぇマスター、私の話聞いてくれてた?
「お客さん。ちゃんと聞いてましたよ。手袋の話。」
「私はねお客さん。しがないバーの雇われマスターです。
付け髭をして今夜もこうやってたいして美味しくもないカクテルを作っているだけの男です。
巨人ファンの前では巨人ファンに
プロレス派の前では猪木イズムの継承を語りしながら、
そうやってスポーツも政治も恋沙汰も、
自我をすてただただ相手の話に合わせるのが仕事の
なんとも情けない男です。
でもね、こんな私でもね、
これだけは自信を持って言えるってことがあるんです。
お客さんはチョロQ理論って奴をご存知ですか?
子供の頃に遊んだチョロQっていうネジ巻き式の走る車のおもちゃ。
覚えてますか?
後ろにいったん引いてから、ぱっと手を離すと
撒かれネジの反動で勢いよく走るっていう
単純な仕組みですよ、あれは。
人と人との関係もねお客さん、
きっと、ちょっと後ろに下がってしまうようなことも必要なんじゃないですかね?
下がった分だけ、相手を想う気持ちが強くなるんですよ。
お客さん。私はそう信じてるんです。
でね。
私ら飲み屋の世界には、
味噌をつけて食べればなんでも美味いっていう、
もろきゅう理論っていうがあります。
双璧です。えぇ。
このもろきゅう、あちらの席のお客さんからです。
佐藤寛孝 |
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