第十三章「消えた人差し指」
金曜日, 5月 2, 2008 at 12:19午前 あんなに怖い顔をしたフランクを見たのは後にも先にもそれっきりだった。
その朝、僕とキャリーは四日におよぶ長くきつい仕事が一段落したので、
フランクのオフィスにある応接用のソファーで
のんきにベーグルのサンドイッチを食べながら
録画しておいたアメリカンフットボールの試合を観ていた。
サンドイッチは少し前にベースへと立ち寄ったジョンが
僕らの朝飯にと届けてくれていたのだ。
テーブルの上には、
手の付けられていないフランクのためのコーヒーとベーグルもある。
フランクはコーヒーが好きじゃない。
自分で日頃からそう言っているのだから本当なのだろう。それでも、
「仕事が長く続くと、どうしてもカフェインを摂取する必要が出てくるんだ」 。
そう言って時々コーヒーを飲みだすのだ。
そして、僕らの間では、彼がコーヒーを飲み始めたかどうかが、
彼の機嫌をはかる一種のバロメーターにもなってもいた。
つまり、コーヒーを必要とし始めたら、
フランクは気が立ち始めている証拠なので、
「要注意」ということになる。
しかし、その日の朝、
フランクの不機嫌バロメーターが
助走なしで天井まで跳ね上がったのには、
単なる疲れ以上の理由があった。
先ほどからフランクは電話の受話器を相手にして相当イライラしていた。
「それで被害はどれくらいになりそうなんだ?」
語尾に刺々しさが感じられる。
僕とキャリーは「被害」という単語がフランクの口に上った瞬間に、
サンドイッチを持ってその場から逃げ出そうとした。
関わらないほうが得策だ。
そう僕らは経験から悟っていたのだ。
しかし、逃げ出そうとした僕らの背中に向かってフランクが怒鳴った。
「キャリー、いますぐブラッドの現場に行って来い!」
その声に、僕は場違いにも、
いつだったか熱心なクリスチャンだった母が子供の頃に話してくれた、
旧約聖書の義人ロトと呼ばれた人の奥さんについて思い出していた。
ロトとその家族は古代都市ソドムに暮らしていた。
しかし、ソドムの住人たちがユダヤの神の不興をかったために
都市が丸ごと滅ぼされることになる。
しかし、ロトとその家族だけは、
神の赦しのもとソドムから逃げ出すことを許されるのだ。
だが、今まさに神の裁き下されようとしている瞬間に、
ロトの妻はソドムでの暮らしへの未練から、
振り向いてはならないと神から言われた命令に背いて、
後ろを振り返り、「塩の柱」にされてしまう。
そんな話だ。
部屋 を出ようとしていた僕はフランクの怒鳴り声に
ビクッとして立ち止まってしまった。
怒鳴られたのはキャリーであって僕ではない。
知らん顔をしてそのまま部屋から出て行けばよかったのだが
体が硬直して動かない。
そして、そのまま顔だけでも後ろを振り向くならば、
自分が厄介なことがらに巻き込まれるのもわかっていた。
ロトの妻と同じように「塩の柱」にされてしまうぞと頭の中の僕が叫んでいる。
しかし、僕は内なる好奇心に打ち勝つことができず、
フランクのほうを振り返ってしまった。
フランク は想像した通り物凄く怖い顔をしていた。
キャリーは振り向いた僕を一瞥してから、フランクに訊いた。
「向こうで何が起きてるんだよ?」
「行きゃわかるさ!」
フランクはそう言うだけで、キャリーに細かな説明をしようとはせずに、
電話の相手との会話に戻っていってしまった。
こうなるとキャリーのもほうも面白くない。
ガキの使いじゃないんだからといったところだろう。
「ったくよ…」
キャリーは少しふて腐れ気味に呟いて、
食べかけのサンドイッチをゴミ箱に投げ捨て出て行った。
「お前もいっしょに行くんだよ!」
今度は僕に向かってフランクが言った。
どうやら僕もゆっくりと朝飯を食べられる状況ではないようだった。
ブラッドが現場監督を担当しているのは、
「レンター・モール」というショッピングセンターだった。
東京ドームくらいの敷地の半分は駐車場で、
残りの半分を使って建てられた店舗には
有名ディスカウント店が幾つもテナントとして出店していた。
場所はベースからは五分ほどしか離れてはいなく、
「エグゼクティブ」にとっては二番目か三番目に大きな顧客ということになる。
しかも、その付き合いとなると相当古く、
積雪量が少なく苦しい時期もこういった大口の客があるからこそ
賭場を開き続けることができるものなのだと、
以前キャリーから聞いたことがあった。
さて、僕らがトラックで現場に向かうと、
モールに接する歩道の一角に「エグゼクティブ」の連中が人だまりを作っていた。
集団の中心には体格のいいブラッドの姿がある。
僕らはトラックを集団から少し離れた辺りに止め、歩いて彼らに近づいていった。
ブラッドがこちらに気がついて、少しだけ肩をすくめるしぐさをしてみせた。
なにやら良くないことでも起きたらしい。
いつもあれだけ強気なブラッドの顔が沈んでいるのがわかった。
「うわぁーこりゃ酷いな」
それは、キャリーが思わず声をあげてしまっても仕方がない光景だった。
モールの壁沿いの車道よりも数十センチほど高くなっている歩道が
おもいっきり削られていたのである。
しかも一箇所だけではない。
その被害は約三十メートルに及んでいた。
「忙しいところ悪いな。俺が親父に『お前は来るな、キャリーを送れ』って言ったんだ……」
ブラッドが僕らに近づきながらそう言った。
キャリーはブラッドのほうを見ずに、被害の及んだ辺りを真剣に眺めていた。
「どう思う?」
ブラッドがキャリーに訊いた。
「雪で歩道が見えないことはあるから、
トラックの操作を誤って歩道の一部を破損させることはありえるけど。
でも、ここまでになると、ドライバーはシャベルが歩道にぶつかって大きな衝撃が出た後も
アクセルを緩めずに向こうまで破壊して行ったとしか考えられないな……」 。
そう言いながらキャリーはまだ遠くを見つめている。
「でも、なんでそんなことをするのか理解に苦しむ、だろ?」
ブラッドがキャリーの眺めるほうを見ながら言った。
「まぁとりあえず、親父を来させなかったのは、正解だな」
ニコッと笑いながらそう言ったキャリーは、もう歩道のほうを見てはいなかった。
それはあたかも、キャリーにはもう、
この問題に対する関心が失せてしまったかのような笑顔だった。
やがてベースに戻った僕らは、しかし、直ぐにフランクのオフィスへと向かいはしなかった。
キャリーがミスター・ジーノの部屋に入って行って、
なにやら密談を交わしていたからだ。
二十分ほどして、ようやく僕らはフランクの部屋へと戻った。
僕らの顔をみるなりフランクは先ほどのブラッドと同じ質問をしてきた。
「どう思う?」
キャリーはフランクの正面に置いてあるソファーに座ってゆっくりと答えた。
「たいしたことはないよ」
「そうなのか?」
「ここ一カ月ほどの間、週に一度は雪が降っているだろ。
きっとうちのドライバーたちも疲れているんだよ。
まぁ、修理は必要だろうけど、
別に人が死んだわけじゃないんだから、大事にはいたらないさ」
「それで、修理にはどれくらいかかりそうだ?」
「一般道に隣接した歩道だからな。
どうしても市が介入してくるだろうけど、
その前にこちらで破壊した一部分を修理しておけば、
金銭的な損害は大きくはならないと思うよ」
「そうか。それならこの件はお前とブラッドに任せるから、うまいことやっておけよ」
そう言うと、フランクはいつもの厳しいけど明るい顔に戻っていた。
「了解」と言いながら、キャリーは僕の顔を見て大きく舌を出していた。
僕は彼にだけに聞こえるような小さな声で「嘘つき!」 とつぶやいた。
そう、キャリーは社長のフランクに嘘をついたのだ。
キャリー は破壊されたのは「一部分」と言ったが、
僕らが先ほど目にしたのは、到底一部分などと呼べるものではなかった。
正確には破壊されたのは三十メートルほどの広範囲だったのだ。
一部分なら事故だが、あれだけを壊したとなればこれはりっぱな「過失」だと言えただろう。
それに、キャリーは問題を起こしたのが、
「エグゼクティブ」が雇った人間であるかのように匂わせていた。
しかし、本当のところは、ドライバーはブラッドが個人的に連れてきた若者の仕業だったのだ。
キャリーは僕を連れ、モールの責任者の所に事情を説明しに向かった。
トラックへ乗り込もうとした僕らに向かって、
ミスター・ジーノがドアから顔だけを出して叫んだ。
「人は集められそうだから、雪が片づき次第、歩道の修理にかかれるぞ」
キャリーは「ありがとう」と言ってからトラックの助手席に乗り込んだ。
どうやら僕は嘘つき副社長に運転手の役目をおおせつかったようだ。
僕はハンドルを握ったまま黙っていた。
「どうして本当のことを言わなかったかって気になるか?」
キャリーのほうから沈黙を破って喋り始めた。
「大したことはないんだろ?」
僕の言い方には少なからず嫌味な感じが含まれていたかもしれない。
「バカ! お前だって現場を見ただろ。大したこと大有りさ。
もしかしたら、相手に事情を説明しても受け入れてもらえないかもしれないんだ。
そうなったら、うちは大口の顧客を一つ失うことになるんだぞ」
「それなら、どうして嘘をついたんだよ。
お前一人で抱え込んで、ことが大きくなったら大変なのはわかっているくせに」
僕の糾弾するような言葉に、キャリーは少し黙ってしまった。
僕が運転するトラックはモールの敷地内へと入る一歩前の信号につかまった。
横断歩道を、高校生たちが残った雪を避けながら
キャッキャッ言いながら楽しそうに歩いている。
冬はまだ始まったばかりなのだ。
「なぁ。ブラッドの右手をちゃんと見たことがあるか?」
キャリーが訊いてきた。
いきなり何の話かと思ったが、僕は一言「ある」とだけ答えた。
「人差し指の第一関節から先がないだろ。
ブラッドが若いころに仕事中の事故で失くしたんだよ」
僕はその時まで詳しい事情を知らなかった。
「でも、俺はな、ブラッドのいびつなあの右手が子供の頃から大好きなんだ…」
信号がようやく青に変わり、
僕はハンドルを切ってモールの地下駐車場へとトラックを回した。
「俺が何かをするだろ。
すると、昔から、あの右手が俺の頭を思いっきり撫でてくれたんだ。
問題を起こした時も、なんか偉いことをした時も。
すごい力で髪の毛をもみくちゃにされながら撫でられたんだよ。
親父はああいう人だから、いつだって俺を一人の男として扱ってくれた。
それはそれでありがたかったんだけどな。
でも、子供の頃の俺にとっちゃ、ブラッドのあの右手だけだったんだよ、
俺のことを、なんていうか普通にほめたり励ましたり、庇ってくれたのは…」
キャリーは、「まぁーそういうことだ」といった顔をしながら、
モールの管理室へと一人で入っていってしまった。
実は今回、問題の事故を起こしたのはブラッドの甥っ子だった。
ブラッド夫婦には子供がいなかった。
以前から、ブラッドはその甥っ子の世話を親身になって焼いていた。
しかし、青年は軽度の精神不安定者だった。
そのため、なかなか定まった仕事に就けないでいたのをブラッドが心配していたのだ。
だからブラッドは彼を雪の世界へと連れてきていたのだ。
もちろん、仕事をさせるために、だ。
キャリーは事故の現場に立って、無残に破壊された歩道をじっと見つめながら、
きっといろいろなことを考えていたのだろう。
壊された歩道のコンクリート以外のものが、
彼の目には映っていたのかもしれない。
その年の冬が過ぎ、夏になり、
僕はキャリーとジョンに連れられてブラッドの家を訪れる機会があった。
一部の友人たちを除いて、
冬の博徒たちに雪のない景色の中で会うのは珍しいことだったので、
僕はとてもその日を楽しみにしていた。
ブラッドの家はフランクやキャリーの家と同様、ニュージャージー州にあった。
フランクの雪かき御殿とまではいかないが、
それでも夫婦二人には十分すぎるほど大きな屋敷だった。
ブラッドは庭でバーベキューの支度をしていた。
僕らが手土産のビールを手に庭へ回ると、
ブラッドは料理の手を休めて僕らを迎えてくれた。
「よくきたな、お前ら」
そう言ってブラッドは、キャリーとジョンと僕の頭を思いっきり撫でてくれた。
ブラッドの右手は噂どおり、大きかった。
佐藤寛孝 |
Post a Comment | 