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木曜日
3222007

幻の果実

不思議な話を聞いた。

正確には同じ話を何度も聞いた。それを初めて聞いたのは、僕が長距離バスに揺られて首都ジャカルタから古都ジョグジャカルタへと向かう途中でのことだったと思う。聞くたびに些細な違いはあっても同じ話だった。だいたい同じ話を幾度も耳にするのはそれほど愉快な経験ではないのだが、その話に関していえばなぜか飽きることがなかったのだから不思議だ。それはもっともっと多くの人の口から同じ話を聞きたくなるような話だったのだ。

だからそれは「不思議な話」なのだ。

初めて不思議な話を耳にしたバスの旅の時、壊れかけて開け放たれたままの窓の向こうに焼かれた畑が永遠に続いていた。

そして不思議な話はこんな風に始まった。

「見渡すかぎり草原がつづく世界の中で、大きな木がたった一本だけ生えている。豊かな葉を茂らせたその大木は大地に根を張って永い時を生きぬいてきた。

木のいとなみとは例えば、それは大空を覆い茂るほどの枝や葉が強い日差しの照りつける世界に小さな安息の場を与えてきたという事だったのかもしれない。羊飼いの少年が今日も大きな木の大きな木陰で昼寝をしている。

夜になれば月に照らされた大木の陰だけがゆっくりと動き、遠く丘の上からキャラバンの到来を待つ見張り番に交代の時を知らせる。

永遠に尽きることなどないかのように実をつけつづけるその木は、獲物を逃した狩人の飢えを満たし、父の帰りを待つ子供達から今夜の安らかな夢を見るささやかな喜びを守ってきた。

祝いの席で花婿はその年に採れたもっとも大きな果実を花嫁に贈り、つつましい若者達の幸福に憧れる少女は大好きな少年の名前を大木に刻む。

そこにあったのは人々と一本の木の優しさに溢れた力強い共存の歴史だった。

しかしやがて、見渡すかぎりの草原の先幾つもの多くの山と谷を越え、彼らが世界の終わりだと信じてきた大海のさらに遠く先の異国の世界にも「草原に生える一本の木」の噂が広まっていった。異国の彼らは飢えていたわけではなかった。乾いた土地で朝靄の落とす雫を糧に生きていたわけでもない。ただ大木と共に生きる人々よりも、ほんのすこしだけ欲深かった。山を一つ越えるたび、海を一日長く渡るたびに大きく膨れ上がった噂と欲望の中で、草原に生えるたった一本の木とその木が与えてくれる彼らにとって本当は「取るに足りない幸福」をどうしても自分の物にしたいと望むようになっていったのだ。

それから、草原と大木の前に長い長い時が過ぎていった。血と暴力で他を圧する異国の民は遊牧と農耕だけが取り柄だった平和の民に、「抵抗」と言う名の暴力と諦めと言う名の「腐敗」を流された血の上に残し、やがて去っていった。

そして今、大木はあれほど豊かに茂らしていた葉を枯らし、もうその実を実らせる事はない。蜃気楼がたつかつての草原で、今日もいつかの羊飼いの少年が荒れた地に寂しく生える大木を見上げている。しかしもう少年の手には羊を追う為の杖はなく、そして少年ですら大木の果実の味や香りそしてそれら収穫物を囲む人々の喜びを覚えてはいない。

彼らはいったい何のために多くの血を流し争い続けてきたのだろうか。きっともう、それすらも思い出せはしないのだ。

その事が、実る事を忘れた大きな木には最も悲しかった。」

不思議な話はいつもここで終わった。

僕を揺らす長距離バスは一直線に伸びた道をただひたすらに走り続けている。車窓から飛び込んでくる景色にこれといった変化はない。遠くに流れる風景の中、焼かれて寂しげな畑の向こうにはところどころ小さな住居らしい建物が点在している。そしてその前で飛び跳ね回っているのは羊を追わなくなった犬たちか、それとも少年達か。

「ようこそ僕らの世界へ」とどこかでそう聞こえた気がする。そしてその度に、旅人は奪われ続けてきた彼らの歴史に実っていたというあの不思議な果実を見上げようとするのだ。

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