ラスト・ボール
金曜日, 2月 29, 2008 at 4:42午前 一塁側アルプスからおきた拍手に迎えられて、
キャッチャーがグラウンドへと出てきた。
マスクをつけていないので、
いつもの丸い顔が、
どんなにきつい練習をしても落ちない
ほほの贅肉を揺らしながら走ってくる。
彼はいったんホームベースに向かい、
一言主審に何かを告げてから、
今度はエースの立つマウンドへと向かって走ってきた。
どうやらタイムを取ったらしい。
「こんだけ長いこと中断して、よくタイムを取らしてくれたな」
周りが思っているほど、
タイムアウト中のマウンドで交わされる
バッテリーの会話というのはシリアスではない。
お互いにミットで口元を隠しながら、
くだらない冗談を言い合ったりするものだ。
「あー腹減ったな。ラーメンが食いてー」
とか、
「お前の彼女、どの辺で試合見てるんだ?」
など、
とうてい緊張した試合とは関係のないような会話を交わす。
ひとつには緊張を強いられる局面で
可能な限りリラックスするためでもあるが、
エースたちにとっては、
それ以上に相手バッターの士気をそぐことの方が大きな狙いだった。
テンションの高まった状態で
バッターボックスに立とうとしている打者の
タイミングを少しでもずらせれば
それだけでタイムを取る意義はある。
大げさに言えば、
野球とはそういう小さな駆け引きを
シーソーのように変わりばんこに仕掛けあうゲームなのだと、
エースは考えていた。
ちなみに、これは誰の受け売りでもなく
エースが経験で感じてきたことだ。
「少しは休憩できたか?」
キャッチャーが丸い顔をさらに丸くして訊いてきた。
「倒れていたのは芝居だったのか?」
エースは先ほどから多少は想像していたことを尋ね返した。
「へへへ。途中からはな。
ちょっとでも長くお前を休憩させてやろうと
俺なりに演技して粘ったんだぜ。
なんてできた女房役なんだろうな、俺は。
感謝料は、好来軒のレバニラ、
餃子つきチャーシュー麺セットで手を打ってやるよ」
そういってニタニタと笑うキャッチャーを見ていたら、
先ほど一瞬でも抱いた、
「ここまでやれて自分なりには満足だ」
なんていう考えは相棒にも伝えられそうにはなかった。
ちらっと振り返った一塁側のアルプスでは、
見たこともない女子生徒が両手を顔の前でしっかりと握り合わせ、
今にも泣き出しそうな様子で必死に祈っている。
しかし、彼女の祈りがもし、
この緊張した局面の鍵を握る
エースに向けられているものであったならば、
残念ながらその願いが彼のもとに届くことはなかっただろう。
彼にとって、見ず知らずの女の子の
エモーショナルな願いや応援など
簡単に無視できるものだったからだ。
しかしである。
まだ、勝ちたいと願っている仲間が彼の目の前にいる。
それがどれだけ身の程知らずの願いであっても、
三年間共にくだらない練習にユニホームを汚してきた奴から聞けば、
あっさりと聞き流すことなどできるわけがない。
「もう少し、もう少しだけ・・・そうやって
似合わない努力なんかして、
気がついたらこんなところまで来ちまったのか」
小走りでホームへと戻るキャッチャーの後姿を眺めながら、
エースはそう呟いていた。
進学校の三年生である彼らにとって、
甲子園に出場するために払った努力は、
一概に周りの全ての大人たちから受け入れられるものではなかった。
ナインの多くが、志望校のレベルがクラスメートとは違っていた。
それでもいいと思ってここまでやってきた。
なにより、選んだのは誰でもなく彼ら自身だったのだ。
自分の人生の中で
それはこれかれも特別に輝く時間となるであろう。
それは甲子園に出場できたからということよりも、
人生の中で自分で何かを選ぶことがゆるされた
数少ない幸福な時間だったから。
そしてきっと、エースにはエースなりの、
負けられない理由が、払われた犠牲があったのだろう。
「まさに、熱闘甲子園ってか」
エースは、高校生らしく
はにかみんがら自嘲気味に笑った。
思考があちらこちらに飛び交い、
すっと何かが心の奥深くに落ちたような感覚がしてから、
エースはマウンドの向こうホームベースを見た。
すると、カクテル光線の向こう、
キャッチャーマスクの中の見慣れた丸顔が
今日だけはなんだかとても頼もしく思えきた。
主審がゲーム再開の合図を出す。
やがて相棒はゆっくりと人差し指を一本だけ出して
いつものサインを送ってきた。
エースはそのサインに大きく一つ首を縦に振り、
ゆっくりと投球ホームへと入っていった。
いつものサインはこう言っていた。
「恋の変化球を、もう一球」
エースは微笑んだ。
そしてうなずくと、ゆっくりとあいつを投げる、
あのいつものモーションに入っていった…。
佐藤寛孝 |
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