月曜日
3122007

彼女のニューヨーク

「私は」と少し恥ずかしそうに彼女は話し始めた。

高校を出て、何となくという気持ちで短大に行った。だから二十歳の春に社会人になったことになる。しかし彼女が大学で遊んでいる間に世の中は大きく変わっていた。彼女が青春を過ごしたのはバブルの終焉の時期で、卒業後の就職先を探すときには思っても見ないことになっていた。本当はやりたい仕事がなかったわけではないが、そんなことを言っていられる状況でないのと、そして自分がその夢の為に何もして来なかった現実も分かっていた。

就職先は大宮の小さな設計事務所にした。会社は小さかったが、その分自分でやれることも多く意外と自分に合っているなと思ったりもするほど一生懸命働いた。

それから8年、馬車馬のように仕事に追われながらの生活を送った。もちろん人並みに恋もしたし、結婚を考えるときもあった。自分ではそれなりに充実しているとも思っていた。

そして彼女が28になった春に突然会社が倒産した。青天の霹靂とはこういうことだと思った。朝いつものように出社したら、同僚に耳打ちされて知らされたのだ。まったく知らない所での出来事だった。しかし、多くの同僚達が慌てふためく中、自分が以外に冷静なのを彼女は感じていた。

自分はこの仕事が好きだったのではないのか?少なくとも今まではそう思っていたはずだった。でも、心のどこかに望まずとして始めた仕事に蹴りをつけたいという気持ちがあったのかもしれない。自分は8年間そんな現実から目を背ける為に、仕事に打ち込んできたような気がした。そんな想いに至って、彼女は非常に物悲しくなった。

自分が青春の後に広がっていた人生の可能性のほんの一部しか生きてこなかったことを思い知らされたような、そんな気がしたからだ。

そして、彼女は仕事を失ったことによる生活の不安よりも、明日の予定が全くなくなったことにどこか浮かれるよな気持ちを感じた。 それは子供の頃、なぜか土曜の夜にワクワクした気持ちで日曜の朝を待った時のような。

わだかまりの残った心に少し空気を入れてあげるため、この機会にと彼女は旅行に行こうと考えた。というのも以前仕事で知り合った人から自分の会社に来ないかと誘われていたのだ。そして彼女はその誘いを素直に受けることにした。旅は働き詰だった自分へのささやかな贈り物にしようとも思ったのだ。そういえば学校を出て以来海外旅行など行っていなかったなぁと彼女は思った。働くようになり多少は自由に動かせるお金もあったのに。仲の良い同僚や、昔の友達から誘われることもあった。でも進んで行こうとはしなかった。 きっと何処かで、遊びすぎた学生時代を悔いるかのように私は働いていたのかもしれない。

でもそんな心理とは裏腹に、彼女にはずっと行ってみたい国があったのだ。

思った通りタイのお寺を回る、3週間の旅行はとても素敵な旅になった。 そして彼女は旅の途中である男性と出会った。

ふとしたころから知り合ったその男性と田舎の美しい寺院の見に行った時、橋の上で遠くに見える一人の托鉢をしているお坊さん見かけた。坊主は食べ物をくれた人の幸せをああやって祈るのと一緒に世界中の人々の平和も祈っているらしい。旅先で出会いやがて別れる二人でも一緒に祈られているのだろうか。

彼女は恋に落ちていた。それは、今までの人生の中で一番素敵で、そしてもっともせつない恋だった。

いずれ旅人は去らねばならない。

彼女は心を引き裂かれるような想いで日本に帰ってきた。この時ほど待つ人がいるのが辛かったことはないと思った。もし、日本に自分の生活さえなければ自分は全てを捨ててあの国に残っただろう。でもそれがまた、臆病さ故に全てを捨てて、彼の胸に飛び込めなかった、自分への言い訳であることも分かっていた。また、昔のような忙しい日々が始まれば、旅先での恋も忘れるだろう。そう思うことにした。

しかし、彼女は彼のことを忘れることが出来なかった。そして彼女の心にある変化が生じていた。あの素晴らしい三週間の出来事の後、また東京でただ忙しく働くことは出来なくなっていた。

あの旅が彼女の何かを変えたのか。それとも必然だったのか。そして今、彼女はニューヨークにいる。

「どうしてこの街だったのですか?」と僕は尋ねた。

「本当はタイに行こうとも思いました。でもそれは少し違うのではないかと思ってしまったんです。何ぜでしょう。」

それから言葉を選ぶようにして、彼女はさらに続けた。「本当は何でそう思ったか何となく分かる気がしているんです。だって少なくとも一度は彼のことを忘れようと思ったんですよ。だったらとことん忘れてみるべきだと思ったんでしょうねきっと。考え方が屈折してるんです、私。だから、あの景色とは正反対の街に行こうと思ったんです」

そして、それがこの街だったのだ。

「すごく変な話かもしれないんですけど時々思うんです。この街でなら、偶然彼に再会出来るかもしれないなぁって。やっぱり屈折してますね、私。」

そう言って、彼女は日曜日を待つ子供のように小さく笑った。