日曜日
3042007

初恋

私には初恋の記憶がない。

というか、私はいつだって心の中で
自分が本当の恋をしたことがあるのだろうかと
「?」付きの疑問形なのだ。
自分の初恋について私自身がよく分かっていない。
それが本音なのかもしれない。
だから、私には初恋の記憶がないだろうか。

今、私には好きな人がいる。
その人の前にも好きな人がいた。
男性と付き合ったことも普通にある。
もちろんこの場合、「普通」って言葉が
どんな数を指すのかには多少の個人差があるのだろうけど。
とにかく問題は、私には初恋の記憶がないのに、
今、普通に恋をしてしまっているということのようなのだ。
これじゃどうも世間では
ちょっと辻褄が合わないぞって思われるらしい。
「初め」がなければ今がどうしてあるのだというわけだ。

大体この話をすると、どんなに親しい友人でも大抵の場合、
顔中から「?」がいっぱい飛び出してきてしまう。
私は別に宇宙語を喋っているわけではない。
ただ、可能な限り真実に近い話をしよとしているだけなのだ。
しかもみんな途中から私の話には
ちゃんとした「オチ」が存在するのだろうと
期待し始めてしまうから困ってしまう。
残念ながら、もちろん、
そんな都合の良いオチなんかは存在しない。

本当に、私には初めての恋の記憶がないのだから。

さて今が問題なのだ。
そう私は今、非常に困った状況にある。
なぜだか知らないのだけれど、
私の前には非常に強引なライターと名乗る男がえらそうに座っている。
しかもそいつは、自分自身で「お茶よりもコーヒーが好きだ」
と言っておきながら、
私が豆を惹いて淹れてあげた我が家で一番高いコーヒーに
さっきほどから一口も口をつけていない。
もうそうとう冷たくなっているだろうな。

この強引な男がさっきから
私に向かって「初恋」の話を聴かせろと言ってきて、
私を困らせている。しかもかなり偉そうに・・・。
あいにくだが、私は自分の記憶にない話しを
想像して聞かせてあげるほど、
豊かなリップサービスの精神を持ち合わせてはいない。
だいたい初恋の話に関しては、
私自身だって知りたいくらいなのだ。

でもこのまま黙っていても
この強引な男はちっとも納得しそうにない。
困った。
このまま時間切れで、残念バイバイってことにしようか。

それにしても、この男はどうしてこんなにも
他人の過去に興味があるのだろう。

強引な奴の登場で、私は少しだけ昔のことを考えてしまった。
横柄な他人のせいで、
私が大切に閉まってきた記憶が少しずつよみがえってくる。
しかも、忘れかけていた記憶たちは息を吹き返したばかりなのに、
あの頃と変わらないくらい鮮明で生き生きしていて、
私はひどくがっかりしてしまう。
そして、そんな自分に堪らなく腹が立つ。

そう、私の想い出が限りなく灰色しているのは
中学校の二年目でクラス替えがあったからだったのだ。
そうだった。
あの年、私はいつもクラスで飼っていた金魚と静かに別れたのだ。
金魚は今、私の中で赤色ではなく灰色がかっている。

あの頃、体長2センチくらいにまで
成長した赤い金魚を私は
一人「キンギョ」って呼んでとても大切にしていた。
言い訳がましいけれども、
私だって本当はもっとかわいらしく
センスのよい名前を「金魚」に付けてあげたかった。
でもそんなことをしたら私の立場的に
大変なことになってしまうのは目に見えていたのだ。
それでなくても毎年飼育係なんていう
目立たない仕事を好んでやっている
かなりクラスで浮いた存在の私だったから、
教室の後ろで「ポツン」とクラスの他の連中には
その存在すらも忘れられている「金魚」のことを
「スレア」なんて間違って呼んでしまったら、
私にはとうとう頭が狂った「変人」のレッテルを張られて、
かっこうないじめの対象にされてしまっただろう。
だれだっていじめには遭いたくはない。 でしょ?

だから私は、狭い鉢の中で生きる友達を、
ただ「キンギョ」とカタカナに直して呼ぶことにとどまっていた。

私が当時通っていたのは都内のKという幼稚園から高校までを
エスカレーター式に進級して行く学校だった。
そこが、私の社会とのファーストコンタクトだった。

学校の話を思い出すと、
自慢じゃないけれどと言いつつでも
少しだけ自慢だったりするのだけれど、
私は学校の勉強がとても良くできた。
机に座って静かに勉強をするのがちっとも苦じゃなかったのだ。
私は教科書を開いて机の上に肘をつきながら、
そっと一人で考えごとをするのが大好きな少し変わった子供だった。
勉強は私にとって、
心の中での一人遊びの延長線上にあったのだと思う。

そんな子供だったので、先生に怒られこともほとんどなかった。
ただ一度だけ、理科の実験で飼っていた
アサガオについた水滴を怖いといって泣いてしまった時に、
「うるさい!!」って担任の木村先生に言われたくらい。
勉強は出来たけれど、
クラスでは静かで前に出るほうではなかったから、
先生たちも手のかからない扱いやすい子供程度に、
ていよく扱ってくれたと思う。
そんな学校という社会が、私には心地よかったりもした。

ここで突然だが、私の想い出の中に秋口君が登場する。

小学校の4年生のときに、
秋口君という男の子が私たちのクラスに転入してきたのだ。
彼は同級生に比べると背が高いほうでなかなかハンサムなうえに、
運動がとても出来たので
すぐにクラスのリーダー的存在になっているのが分かった。
先生たちもその辺の子供の社会のパワーバランスをよく理解していたし、
彼も自分に求められている立場を
そつなくこなせる素直さをもった大人子供だったのだろう。
そう、彼は世界中の女子たちの小学校の思い出の中に
一人は登場してくるようなタイプの男の子だったのだ。
もちろんクラスの大半の女子は、
秋口君の「お嫁さん」になる未来に憧れていた。

そんな秋口君が、ある日、
彼の家から一匹の金魚をクラスに持ってきた。
クラスで金魚を飼う為に
秋口君が自ら先生に提案して持ってきたのだと思う。
しかし、実際になぜそんなことになったのかは、
今も当時も私は確かなことがわからない。
とにかく、あの「キンギョ」は秋口君という男の子が
持ってきたものだったということだけが確かなのだ。

今、一瞬でも私が「キンギョ」の思い出の中で、
そのキンギョの登場と絡めて秋口君を好きになった。
それが私の初恋でした、
というのが「オチ」でしたチャンチャンと期待したのなら、
残念ながら彼方の予想は不正解だ。
なんか気を持たせるかんじだったらあやまりますが。

何を隠そうその秋口君は学年が上がる前に
またどこかへと転向して行ってしまったのだ。
しかも、先ほどから「秋口君、秋口君」と
かなり親しみを込めて呼んでいる男の子の名前だって、
実際のところは彼の存在だけが私の記憶に鮮やかに残っていて、
でも彼の名前となると突如としてあやふやな記憶だったりするのだ。

とにかく、ポイントは秋口君なる少年が
例のキンギョをクラスに持ってきたということ。
そしてもちろん私の初恋相手は秋口君ではなかった。

ではなぜ、私がキンギョの面倒を見る役回りに
その後の四年間もなったのか。
これに関してはかなり鮮明に記憶している。
当時、私の家では
もの凄く歳を取った一匹の老ウウサギを飼っていた。
茶色い毛のウサギだったのだが、
歳をとってきて全体的に不思議な白さを漂わしているウサギだった。

ある日の朝、
そのウサギが突然死んでしまうという事件がおきたのだ。
私は正直言うとこのウサギを特別好きだったわけでも
可愛がっていたわけでもなかった。
それでも幼心にいつかは死ぬのだろうなと確信して命とはいえ、
突然自分の目の前で動かないウサギの死体を見てしまったために、
その朝私はなんだかすごく気分が高ぶってしまった。
そして、ちょっとした高熱まで出してしまったのだった。
お陰でその日、私はめずらしく学校を休むことになった。

そして死んだウサギへの所在不明の罪悪感に
私が苦しんでいたその日、
私のまったく知らないところで
秋口君が転向したために空いた「キンギョの飼育係」を決める
クラス選挙があったのだ。
そしてその場にいなかった私が
責任を引継ぐことになってしまったのである。
まったくもって酷い話である。

いくらおとなしくて
感情をあまり外に出すことの少なかった当時の私でも、
これにはちょっと頭にきた。
しかし、悲しいかなしょせんは小学生、
少し腹が立ってでも同じ分だけ少し落ち着くと、
キンギョは意外とかわいことに気がついたりして
自分を慰め元気付けはじめているのだ。
怒っていたはずの私の中で、
それだけのことになってしまってはどうしようもない。
振り上げたこぶしがいつの間にかぐるっとまわって
もとの場所に落ちついているわけだ。

先ほども少し述べたけれど、
当時の私はエスカレーター式の学校に通っていた。
だから、私は小学校の四年生の三学期から
中等部の二年生に進級するまで、
一度もクラス替えを経験しなかった。
そのこともあって、私はなんとなくそれから
毎年自ら飼育係に立候補するようになっていた。
もちろん毎回対抗馬無しで無事当選。

中学二年生の時のクラス替えは、
私にとってクラスの中で私が生き抜くのに
必要な貴重な友達の数人と
クラスが違ってしまうことに沈むだけではなかった。
なぜなら、小学校の四年生の時から、
それまではいつも同じ教室の中で
面倒を見させられていたキンギョが
私の前から奪われることになったからだ。

クラス替えをしても私が責任を持って
新しいクラスでキンギョの面倒をみるつもりだった。
しかし、 「中等部の新しい教室は三階にあって、
窓際に金魚の水槽を置くのは危険だから」
と新しい担任の須藤先生は私に申し訳なさそうに説明した。

「それでも、以前の教室を使う新しい1年D組みの飼育係が
ちゃんと金魚の面倒はみるからね」 。
彼女は無邪気にそう言った。

もちろん、須藤先生に罪はない。
でも私は、小学校時代の長い時間をお世話になることになった
この若い女性の担任が結局は好きにはなれなかったのだが、
たぶんそれは彼女のその無邪気さにあったのだと思う。
子供たちへの優しさとは、
ただ優しい声をかけるだけですむのだと、
先生は信じているかのようだった。
本当に親身になっているのなら、
何らかの勇気や強引さを持って行動するのも優しさだったはずで、
でも先生にはそれが決定的にかけていたた。

それから、私は毎朝自分の教室に向かう前に
「キンギョ」の様子を確認するため、
つい最近まで自分の生活の大きな時間を過ごしていたのに、
クラス替えがあってから
急に懐かしさすらも漂わす古い教室に顔を出すようになった。
皆よりも少しだけ早めに登校して、
誰も居ない教室で「キンギョ」を眺めていることが
週に一回くらいの割合で数ヶ月は続いただろう。

当時は、愛しい恋人に会いに行く
大人の恋の気分とはきっとこんな感じなのだろうと、
テレビドラマの中の大人たちに憧れていたりもした。

やがて夏休みになり、それが終わると三学期が始まった。

そして、私はキンギョの死を知った。

須藤先生から、キンギョは夏休みが明けて、
二学期の初登校の日に死んでウジがわいていたのを
発見されてすぐに処理されたと聞かされたのだ。

先生の顔は私以上に悲しそうで少しだけ申し訳なさそうでもあった。
一時的な高まった想いで、誰かや、何かに感情移入してしまう、
そんな安っぽい同情を表す顔に私には見えてしまって困った。
そんな先生の顔を見詰めていたら、
私は何だかそこの知れない暗闇に包まれるような不快感を抱き、
めまいを感じたからだ。

キンギョが死んだ直接の原因は、
新しい飼育係がキンギョを夏休みの間
家に持ち帰るのを忘れたからだった。
きっとその生徒は、
それでなくとも何かと荷物がかさばる終業式の日に、
キンギョなど持ち帰りたくなかったのだろう。
夏に家族や友人と遊ぶ計画を立てわくわくしている時に、
面倒な金魚の世話など誰が意識できるだろうか。
だから私はその無邪気なキンギョ殺しの加害者を
憎むことがどうしても出来なかった。

ただ、その日の下校の時、
夕刻の街を抜けて住宅街へと
抜ける神社の抜け道を走っている時、
周りに人が誰も居ないことを確認してから
私は自転車の上で静かに泣いた。

それから少し私は落ち込んだ気分の日々をすごしたと思う。

夏休みにキンギョが苦しんでいる頃、
私は家族と楽しい旅行に行き、友達の家にお泊りをし、
去年よりも少しだけ強く日焼けが出来たと騒いでいた。
そうやって少しでも自分を責めると、
それはなんだか私が少し大人になったかのような
錯覚を起こさせたりしたのだろう。

そしてやがて私はキンギョのことをゆっくりと
しかし確実に忘れてしまっていった・・・。

今、目の前に座っているこの横柄なライターを名乗る男には、
絶対に話したくないは過去のことを、
私は鮮明すぎるほど正確に思い出していた。

そして思った。やはり私には初恋の記憶がない、と。