第十章「初雪」
水曜日, 4月 9, 2008 at 3:59午前 デネンが雪の世界から姿を消した同じ年の冬、
一人の男の子を雪の現場でよく見かけるようになった。
名前はスティーブといい、
クイーンズのハイスクールに通う十六歳の少年だった。
彼はそれよりも一年ほど前に、
南米のスリナム共和国という国から
ニューヨークへとやってきた移民一家の長男だった。
雪が降るとスティーブはいつも父親についてベースへとやってきていた。
彼らの出身国には非常に多くのインド系住民がいるらしく、
一見するとスティーブも彼の父親もインド人のように見えた。
ニューヨークへと移住してくるまで、
スティーブの親父は仕事をしないで過ごしてきたそうだ。
彼らの出身国では、まともに働かず、
日がな一日ぼーっと路上の往来を眺めていたり、
木陰で昼寝をしていたりする男たちの姿が珍しくはないという。
国全体が貧しく、特に地方に行けばいくほど抜け出せない貧困に嫌気がさして、
必死になって働かなくなる人々が増えるためらしい。
そういった家族の場合、大抵は妻であり母親である女性が稼いだお金と、
野や山に育った果物などでぎりぎり飢えをしのぐ生活になるらしい。
僕にとっては、それでも食べていけるらしいというのが驚きでもあった。
それもしかし、このニューヨークの街ではそうもいかない。
世界有数の経済都市は物価の高さでも世界有数なのだ。
そこで、スティーブの父親も働きに出ることになるのだが、
それはなにぶん慣れない労働である。
どこに行っても長く続かず簡単に辞めてしまったり、
仕事に行かずに公園でぼーっとしたりすることが続いた。
そこで、スティーブの母親は父親と共に
息子を監視役として仕事によこすことを考えたのだそうだ。
そんな事情を抱えたスティーブが初めて「エグゼクティブ」にやって来た夜、
僕は偶然にも彼を連れてJFK国際空港の
巨大な敷地内に建つジェット燃料貯蓄施設の雪かきに向かうことになった。
親父さんはどこかの違う現場でシャベルを振っているはずだった。
時期はテロ後のニューヨーク。
しかも場所は空港施設内の中でも特に危険なジェット燃料を扱う場所とあって、
実際に仕事の現場へとたどり着くまでに、
実に三度ものセキュリティーチェックを受けなければならなかった。
これにはさすがに嫌気がさしてしまった。
「雪がふってるのはここでだけじゃないんだぞ」
僕は呟きながら目つきが悪くなっていただろう。
遅れると苦情の出る現場を抱えているこちらとしては、
必要以上に緩慢な仕事振りのガードマンに腹が立って仕方がなかった。
ようやく検問所を抜け現場へと到着すると、
僕は白銀の世界にそびえる不思議な近未来的建造物の
貯蓄施設周辺の雪を慌しくかいて回り始めた。
そこは歩道の少ない現場だったので、
スティーブには後部に取り付けられた塩撒き機に、
10分に一度ほどシャベルで塩を補充する以外には大した仕事もなかった。
すると、突然スティーブが訊いてきた。
「トラックの荷台に乗っていてもいいですか?」
僕は最初、彼が自分の仕事が少ないことに気をつかって、
塩の補充作業を少しでも早めるためにそんなことを訊いてきたのかと思った。
「急いでいるとはいっても、君が乗り降りする時間を惜しむまで慌てる必要はないよ。
だいいち外はまだ雪が降り続いているから寒いだろうし、
補充のたびに荷台にあがればいいから」
細くなっていた目つきを可能な限り丸くして、僕なりに優しく答えたつもりだった。
「そうですか……」
そういって彼は黙ったのだが、なにか少し不服そうだった。
そして少し考えてから、また恥ずかしそうにこう言ってきたのだ。
「実は飛行場にやってきたのは生まれて初めてなんです」
僕は彼が何を言いたいのかつかめず、
ただ、「ほぉ」といった相槌を打ちながら彼の真意を探るため話を聞いていた。
「それから、雪を実際に見るのも今夜が初めてなんです。
だから、できたらでいいんですけど、外で雪と飛び立つ飛行機を眺めていたくて……」
自分が成田からJFKへと飛んできたためか、
僕はいつしかニューヨークへとやってくるには飛行機でとばかり考えていたのだろう。
スティーブの一家はどんな経路でアメリカに、そしてニューヨークへと入ったのだろうか。
その場で彼に尋ねてみたいという好奇心が疼いているのを感じながら、
僕は彼に「構わないよ」とだけ言ってトラックを停めた。
そのほうが、せっかく彼が迎えた「初めて」に溢れた夜を邪魔しないで済む気がしたからだ。
スティーブは嬉しそうに雪の降る外へと飛び出して、荷台へと飛び乗った。
それを確認して僕はゆっくりとアクセルを踏んだ。
バックミラーに映る少年の向こう、
僕らも昔あんな顔で、
雪に、飛行機に、そして異国という名のこの街に興奮していたのだろうか。
その夜、僕はとりとめもないことを考えずにはいられなくなっていた。
その冬が終わり、季節は春になっていたある日、
最近ではすっかり旅の相棒になっていたジョンと二人で、
僕はフロリダへサーフィンをしに旅立つために
JFK国際空港のターミナルで搭乗便を待っていた。
そこは新しいターミナルビルのため、広く綺麗なフードコートが併設されており、
さっそく二人でビールを飲みながら
冬の過酷な労働へのねぎらいをしようじゃないかということになっていたのだ。
僕が二杯目のビールを頼むと、
ポテトフライと鶏肉のから揚げが一緒にカウンターに出された。
「あれ、こんなの頼んでないよ」
そう言いかけた僕らの前にはなんと、
あの雪と飛行機に感動していたスティーブ少年が立っていたのだ。
深く被った黒いキャップにはフランチャイズレストランのロゴが描かれている。
「なんだ、お前ここで仕事しているの?」
僕が訊くと、
スティーブは僕らが座るカウンターバーの背後にあるピザ屋のコーナーを指差して、
「そうなんですよ」と言った。
そこでは、スティーブの親父さんが愛想のない顔でピザを焼いていた。
どうやら、スティーブン相変わらず父親の監視役に送り込まれているようだ。
雪の夜に無性に感激していた少年の横顔。
ちょっとの感動や幸せだけで、
複雑な問題を抱えた彼の人生が劇的に変化することなどありえない。
しかし、だからこそ彼のひたむきさとかが
「エグゼクティブ」の博徒一家に似合うのかもしれなかった。
誰だって何かしらを抱えて生きているのだ。
仕事にまだ慣れていないのだろうか。
小麦粉にまみれながら働く父親の姿に目をやってから、
「なるほど…」
と言った僕らに、スティーブンは少しだけはにかみながら、
「これよかったら食べてください」 とおつまみの揚げ物を見た。
「サンキュー。へへ、悪くない旅の始まりだぜ」
人に優しくすることに恥ずかしそうな彼の気持ちを汲んで、
ジョンがおどけながらそう言ってから、
から揚げを一つ摘まんで口の中に放り込んだ。
「ここなら、好きなだけ飛行機が近くに見えるな」
僕もそう言って、少年の折角の親切に感謝して一ついただいた。
彼にもいつか、飛行機を見飽きる頃がくるだろう。
新鮮さを一度失って人は本当に大切なものに気がつくことができる気がする。
その時は、また雪の世界にやってくるのだろうか。
それは僕やジョンがここ数年で雪の世界で学んできたことでもあった。
(続く)
佐藤寛孝 |
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