February
月曜日, 5月 5, 2008 at 4:50午後 私が物心ついた時から母は長く重い病気と闘っていたため、
幼い私は多くの時間を病院のロビーや病室で過ごした記憶がある。
小さなレモン牛乳のパックを与えられて
待合室の一番前の長椅子に腰掛け、
何時間も一人で TV を見ていると
顔見知りになった先生や看護士さんたちが立ち止まってくれた。
そして大抵は、私がジュースをどうにか飲み終わる頃になると
母は診察室から出てくるのだった。
母は最終的には在宅での介護を受けていたが、
私の記憶の中で、母の病は、
消毒液と人がおびえた時に放つ異臭の交じり合った世界にあった。
母が亡くなり、数年後に叔母が走ってくる電車に身を投げた時、
山田さんから連絡を受けて市内の警察病院に慌てて駆けつけた私は、
病院の懐かしい匂いに
場違いにも心が一瞬緊張の糸を解くのを感じてしまった。
ずっと私を縛り付けている恐怖の糸が、
母がその命を奪われた忌まわしい病気と闘っていた戦場で嗅いだ匂いの中で
解けて行くことにたっぷりの皮肉を感じながら。
母を病気で失った幼い私は、医者になるのが夢になった。
けっこう複雑でやっかいな出来事の連続の中で育った私が、
大した努力もせずに奨学金を受けて医大へ入れたのは、
きっと父が私に残してくれた遺産のおかげだったのだと思う。
私のDNAに組み込まれた彼の優秀な頭脳が
私と幼い夢を結びつけてくれた。
母と叔母を失い、医学の道へ進む。
ありきたりだが、世の中というのは
わかりやすい理由や動機がもっとも受け入れられるものだ。
でもね。本当は少し違う。
だって、私が医者を志したのは、
別に母の担当医が最善を尽くして母や叔母を救おうとしてくれたからでも、
待合室で私に笑顔を忘れさせないようにと
優しく接してくれた先生や看護婦さんたちの姿に憧れたからでもない。
幼かった私は、
彼らのように他の誰かの命や心を救うために医者を夢見たのではなかった。
ただ、自分の人生を自分でコントロールしたかった。
そのために、この道がもっとも都合がよく思えたのだ。
私自身がもう誰も失いたくなかったのだ。
佐藤寛孝 |
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