木曜日
3222007

消えかけの足跡

マルキエ・スワルツはいっけんごくありふれた23歳の女性です。黒いカーリーヘアーにデニムのパンツと白いTシャツを合せた格好の彼女から、創作文学選考で学士の過程を修めて最近卒業した学生生活について聞いているとその思いは更に強くなります。しかし、彼女の大学卒業は僕たちの平均的なそれとは少し違っていました。

マルキエはブルックリンのクラウンハイツという町に存在するルバヴィッチ派ユダヤ教徒の社会で生まれ育ちました。超正統派ユダヤ教の一派である彼らの生活は、「ハラハー」と呼ばれるユダヤ教の慣例法規集の教えや律法に忠実に従うことが中心になっています。そのためアメリカの同年代の女性達とは異なり、彼らの社会ではマルキエのような若い女性が受けることの出来る学校教育は非常に限られています。結婚に備えるため、または家の外に働きに出たときに限られた事務仕事をこなすための教育以上、彼女達が学校で学ぶことはありません。マルキエも教育に関して非常に閉ざされたそんな社会で、ユダヤ教徒の文化や伝統の継承のための個人という社会的存在意義の中で長い間生きてきました。

そんなマルキエが一大決心をしたのは19歳の春でした。ブルックリンのユダヤ社会から出て、「外の世界」で違った人生を生きてみることにしたのです。すぐに彼女はブルックリン橋をマンハッタンへと渡り祖母の家に身を寄せました。いい年をした大人が身内に頼るのはどうだろうかと思われるかもしれません。しかし、社会生活に対応するための能力も人脈も持たなかった当時の彼女には、その時はそうする以外にユダヤ社会から「ドロップアウト」する方法を思いつくことが出来なかったのです。

マルキエの祖母はユダヤ人でしたが長い間マンハッタンで一人、正統派の生活から離れ一般社会の常識に溶け込んで生きていました。当たり前のように祖母の家にはテレビやビデオがありました。祖母はハラハーを時々読んではいましたが、日々それだけに従って生きて行くつもりはありませんでした。自立した仕事を持ち、週末には友人と映画や旅行や食事などへと好きなように外出もしていました。そしてそれらの全てにマルキエは驚いてしまいました。いっときは自分と同じように超正統派ユダヤ人の女性として限られた社会の中で生きていた祖母の日々の中には、マルキエが長い間渇望していた人生における選択肢という名の可能性が当たり前に広がっていたのです。

祖母はマルキエに大学に行って学ぶことを薦めました。マルキエは随分と昔に学校へと通うことを辞めさせられていました。学校に戻ってみたいとは常に心のどこかで願ってはいましたが、同時にまさか本当に自分が大学へ行けるなどとは思ってもいませんでした。進学に関して非常に消極的になりがちなマルキエを、祖母は優しくそして力強く励ましました。

それからマルキエは、アメリカでなんらかの理由のために高校までのカリキュラムを修了していない人が大学へ入学するために不可欠な「GED」と呼ばれる試験を受け、大学へと通い始めました。そして大学を卒業するまで、徹底した勉強漬けの日々を過ごしたのです。彼女の大学でのGPAは3.78という非常に立派な成績でした。

超正統派ユダヤ教の社会を飛び出して生き始めるというのは、男性であっても女性であっても怯んでしまう経験になりかねないとマルキエは言います。想像してみてください。往々にして、英語はアメリカで生まれ育った彼らにとって第一言語ではないのです。イディッシュ語と呼ばれるドイツ語にヘブライ語とスラブ語が混和したヘブライ文字で書く言語が中欧、東欧、米国のユダヤ人が用いる第一言語になります。アメリカに暮らしながら、しかし彼らの社会では英語は日々の常用語ではないのです。その上、普段からテレビやラジオに映画、新聞に雑誌といった情報の窓口に触れる機会すらほとんどありません。男性であれば一日のほとんどをトーラー(モーセ五書)の勉強にあてる日々を過ごし、女性はそういった宗教教育すらも受ける機会が与えられてはいません。そしてそんな社会のあり方に疑問を持つ者は大抵、狭い共同社会の中で村八分的な扱いを受けたり、自身の家族からの不興を買うという辛い経験をしたりすることになるのです。そして更に彼らを苦しめるのは、自分が属していた親密な社会から出ることで味わう強烈な「孤独感」であり、また自分が新しい社会に適応するための能力不足にたいする漠然的な「不安」でもあります。ある場合には、それらのストレスによって麻薬やアルコールそして危険な性関係へと彼らを走らせてもしまいます。

去年の秋に晴れて大学を卒業したマルキエはある意味で幸運なドロップアウトのケースだったかもしれません。彼女には理解のある祖母の援助とアドバイスがありました。そんな彼女に僕はこう尋ねました。

「あなたは属していたユダヤ社会を飛び出す事にある種の“成功”ができた今、ユダヤの厳格の生き方を飛び出す前に想い描いたような「幸せ」を享受していると思いますか?」

人は生まれる時や場所を選べない以上、それはすこしだけやくざな質問だったかもしれません。

すると彼女は「どうかな・・・」とすこし寂びしそうに呟き、そうしてこう続けました。

「よくドロップアウトした他の友人達と話をしていると、正統派のユダヤ社会にいずれは戻るかどうかという話題が出るんです。もちろんそれに対する考え方は人それぞれなのですが、でもポイントはそういう話題なり議論が私達の中で常に上るということなんじゃないかなって思うです。

一般の人々が私達に示す興味のわけというのは大抵、私達が過去に属していた社会から離れて幸せですといった意見を聞けると期待している場合か、またはあんな社会にいると女性は不幸でしかないから外部から女性の立場向上に励みたいといったフェミニスト的意見を聞くことにあったりするのを感じます。でもそれらの全てが私には少しずれているかなとも思えてしまうんです。

結局、戻るとか戻らないとかという議論が生まれる時点で、私達はやはりユダヤ人であることの大前提を自分自身で受け入れているわけです。それならば、ユダヤ教の社会の外側から色々意見を言ったり批判をしたりするだけに終始するのではなくて、一度その社会の外側に出て、でもまた今度はユダヤの社会の内側に新しい自分として戻ってみるひつようがあるんじゃなか。その時、では自分には本当に何が出来るのかを模索する必要があるんじゃないかと」

外部の人間がいう「出る、残る」という議論は現実のユダヤ教徒の社会ではあまり意味がないのかもしれないと言うことなのでしょうか。

「人はアイデンティティーに関わることの場合、それが議論される必要のあるものだとすらあまり感じないでしょ。それは私達にもあてはまるのだと思いたいんです。そして同時に、ユダヤ人であることは特別ではなくて・・という強烈な私の個人的な意思の裏返しでもあるのですけど。」

マルキエの祖母は一年前に食道癌で亡くなっています。祖母の最後の日々に、マルキエは以前からどうしても聞いておきたかったことについて勇気を出して尋ねてみたことがありました。

「ねぇ、おばあちゃんはどうして私たちを置いてユダヤの社会から出て行ったの?それで、おばあちゃんは本当に幸せだった?」

それは長く離れていた時間を持つ孫から祖母への単純な質問でもあり、そしてまた一人のユダヤ人女性として彼らの社会から飛び出して生きた戦友への、若いマルキエなりの必死な投げかけでもあったのかもしれません。そこに絶対的な答えが存在するわけではないことを、マルキエ自身がもっともよく知っていたのですか。

すると祖母はとても綺麗なイディッシュ語でマルキエに語り始めました。数年前、橋を渡って祖母に会いに来て以来、一度として祖母がマルキエに対して使うことのなかったイディッシュ語。それはマルキエが10年ぶりに聞く懐かしいユダヤの言葉でもありました。

「おじいちゃんが突然死んでから、おばあちゃんは厳格なユダヤ教に生まれた女性にももっと多くの人生における選択肢があって、望めばそれを手に入れられるはずだって信じたかったの。そりゃ信じた道を生きるということは時として悲しいことでいっぱいだけれども、でもお前が今こうして私の最後の時に傍に居てくれる。私はそんな小さな幸福を抱いて生きて来られた気がするんだよ。

きっと、マルキエは私がお前達を置いてきたと思ってきたかもしれない。でも、私が歩いて残した小さな足跡を、マルキエ、お前がしっかりと見つけてくれたじゃないか。その跡を、お前は勇気を出して歩きなぞってくれた。だから、私は一度もお前達を置いて来たなどと思はなくてすんだんだよ。ただ自分は少し先に行って待っているだけだと信じられた。だってほら、マルキエは私をちゃんと見つけることが出来たじゃない・・・」

大学を卒業してから、マルキエは友人達と一緒に若いユダヤ人の女性を手助けすることを目的にした非営利団体を運営しています。超正統派の社会から出た他の女性達が、慣れない環境や価値観に順応していくために、彼女達が本当に必要な組織を作っていくのが目標です。祖母がマルキエにしてくれたように、女性達が望めば高等教育を受けるための相談やそのための準備のお手伝いをするのが、今の所マルキエ達の主な活動になっています。

その団体の名前は“ Footsteps ”、「足跡」と言うそうです。