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木曜日
2072008

プレー・ボール

エースはキャッチャーのいないホームベースに向かって一つ首を振った。
九回の表、夕方六時をまわった甲子園には、
昼の暑さとは異なった熱気が満ちている。

中二日での連投も今日で三試合目。
県予選から甲子園のここまでマウンドを
控え投手に明け渡すことは一度たりともなかった。
そんなちっぽけな自負が、
この長い夏の間に蓄積された疲労のために、
もうまとわりつくような汗しか出なくなった今の彼をどうにか支えていた。

精神が肉体を超え始めるとはこういうことだろうか。
だとしたらどうってことはない。
ただ単に「負けたくない」という思いが
「クーラーの効いた涼しい部屋でごろごろしていたい」という思いに
ほんの少しだけ勝っているだけのこと。彼にはそう思えた。
しかし、消耗され尽くされて、
本来ならば発育途中のはずの彼の右肩はもうすでにボロボロで、
大きな代償の上に立つ球威はここにきて確実に落ち始めていた。

延長十一回までもつれた前の試合の影響で、
彼の登板は予定よりも二時間近く押して始まった。
気がつくとナイター用の照明にはすでに煌々とした灯が燈っている。

「あと半時もすればナイター中継が始まる時間じゃないか」

エースは試合開始当初から止まらずに噴出し続ける汗を
袖で一度、二度拭きながら、
恥ずかしいほどに盛り上がる応援席とは対照的に、
わりと冷静にそんなことを考えていた。

一試合勝ち進むごとに増え続ける急造の応援団は、
いつしか部員の知り合いのそのまた知り合いといった枠を超えて、
三年間の土まみれの野球部生活じゃお目にかかることもなかった
女子生徒の応援団までもが混じっていた。
そういえば、眼だけが異常に良い外野手が、
「あれは中央女子高の制服だな」と試合前の応援席を眺めて騒いでいた。

「それにしても、あいつらはしゃぎすぎなんだよな」
彼は小さな声で吐き捨てた。

応援の質にも名門校とぱっとでのノーマーク校じゃ
大きな違いがあると、エースは考える。
一段高くなったマウンドから投げていて、
たとえば相手チーム内野応援席に
マスゲームさながらのきれいな人文字などを見たり、
一糸乱れぬブラスバンドの演奏を聴いたりすると、
バッターボックスの坊主頭が無性にうらやましく感じるものだった。
名門校は応援するほうも初めから
甲子園のアルプス席で青春の一ページを飾ることを目標にして
必死に練習してきたというわけなのだ。

それに比べて自分の背後の応援団には
大した野心や目標があったわけではないだろう。
だいたい、うちの学校に正式な応援団やチアリーダたちが
存在したのかどうかも怪しいくらいだ 。
結局、必死になって苦しい練習に耐えてきたのは自分達だけで、
割を食っているのは俺らだと思い始めると、
どんなに熱のこもった応援を受けても、
彼の中のどこかで冷めた気分にならざるをえなかった。

「棚から牡丹餅応援団」がわけもわからず騒いでいる一塁側アルプスを見ると、
つまりは、自分という高校球児の、
名門校には拾われなかった現実や限界を見るようで悲しくなるのかもしれない。
そのためだろう、彼は甲子園にやってきてから、
試合に勝った後に内野席近くまで行って
応援に感謝を表す脱帽やお辞儀をしなくなった。
「肩が痛い」と言っては、
救護役の女子生徒に肩を借りて一人ダッグアウトに引き下がってしまう。
そのくせ、誰よりも先に、誰よりも長く報道陣のインタビューには応じるのだ。
彼のそんな行為が、見た目の角刈りよりも
杓子定規の角が四角張った高野連の委員の反感を買っても仕方がなかった。

それでも、まぁとにかくこの試合は
九回を残すまでとなっている。
始まれば終わると言った歌手がいたように、
この試合もあともう少しで終わるのだ。

(続く)

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