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水曜日
2202008

「深夜特急1−香港・マカオ」−沢木耕太郎

香港に行かれたことがあるだろうか?

とある航空会社の路線増設記念パティーの席上で、
五十前くらいと思われる英国の海外特派員に
そう尋ねられたことがあった。
あれは確か、記者会見前の席取り後のことだったと思う。

僕が答える前に、
反対側の席にいた若いアメリカ人記者が
「それは中国返還後のことか」と聞き返した。

欧米の文化圏では時々、
ウィットに富んだ会話の応酬を楽しむ大人の時間
みたいなものが存在するようで、
僕みたいに英語も苦手なら
ウィットのかけらも持ち合わせていない
僕のような日本男児となると
ただただ目を泳がせて
連中の話に耳を傾けるだけになってしまう。

だからこの時も、特派員の男が
単に香港旅行をしたことがあるかと
訊きたかったのではないのは明らかだったのだが、
上手く答えられずに戸惑ってしまっていた。
アメリカ人の記者が「中国返還のことか」と尋ねたのも
相手が英国人だったからであり
それはなんというか
非常に巧みなネタフリだったのだろう。

特派員の男はまだ僕を見ながら
「いや、香港の歴史を
本当の意味で区切るのは返還の時じゃないですよ」
と言った。

僕らは航空会社の記者会見にきているのだ。
僕は自信があったわけではないが

「新しい空港ができてからの香港にしか
行ったことがありません」と僕は答えた。

正式名称は「香港国際空港」。
広く、明るく、風通しの良く、清潔で、
市内との接続交通機関に便利な香港の顔だ。

「そうか、じゃぁ、あの古い空港のランディングを
経験したことがないんだね」
と彼は笑った。

「閉鎖の時はまだ高校生でしたから」
と僕は答えた。

「あの時の高校生が今は同業者か。
まったく齢は取りたくないものだ。
しかし、あれだね、遅れて生まれてくる
というのもまた時には不運なことだね」
と彼は少しだけ誇らしげにそう言った。

本当にその通りだなぁと
僕はその英国人を見つめながら
いたく納得してしまった。

僕らの短い会話を聞いていたアメリカ人記者は
終始チンプンカンプンという顔をしていたが、
直ぐに知り合いのカメラマンを目に留めたらしく
どこかへ消えていった。

98年の新空港開港に伴い、
当時世界一着陸が難しいと有名だった
香港の「啓徳空港」は閉鎖されてしまった。

香港市街地のそばにあった旧空港は、
着陸のために大きく機体を傾けつつ香港市街地上空を旋回し、
そして中心部のビル群すれすれの高さを飛行して着陸する
「香港アプローチ(香港カーブ)」が有名だった。

特派員の男性の話では、
問題なく無事降り立ったときには、
乗客全員から自然に拍手が湧き出るような
世界でも珍しい空港だったそうだ。

僕は今でもそんなジェットコースターのような
ランディングで訪れる香港を
知らないことが残念でしかたがない。
なぜなら、香港は、
中学生だった僕が「深夜特急」の中でに出会った
記念すべき最初の異国だったからだ。


全六巻の「深夜特急」は、
二十代半ばのまだ何者でなかった著者が
一年半をかけて行った
ユーラシア大陸横断の旅の記録である。

と書いてしまえば
なんてことはない私小説みたいに聞えてしまうが、
ようは、どれだけ多くの読者がこの本を読んで
旅に憧れ、また、旅に出て行ったか
という読後の事実にこそ真の意味があるのかもしれない。

十代の早い時期から極度の沢木マニアとなった僕が
今でも一人旅にはまっているのは間違いなく
「深夜特急」の影響である。

これといった目的も終着点も帰国の時期も決めずにふらっと
長い旅に出る。

一つの町や国に留まるにしても
足早に地図の上を走る抜けにしても、
旅人は大抵、興奮、無関心、焦りの
三つの精神的ステージを通過することになる。

ステージが移り変わる境界線は
旅が長くなればなるほど顕著に旅人の心に現れる。

今回あえて長い「深夜特急」シリーズの第一巻を選んだのも
その心のステージに多少の関係があるためだ。
香港とマカオでの滞在を書いたこの第一巻の中で
著者はまだ「興奮」の中にいる。
初めての異国に、香港という都会に興奮しているのだ。

長いの旅の中で
どの時期がもっとも幸福なのかというやくざな問いに
絶対な答など存在しないだろうが、
旅に出る前夜へ誰かに勧めるとしたならば
やはり、第一巻の興奮の世界を
まず味わってもらいたいと思う。

もう、あのビルすれすれを飛ぶ
香港には出会えないならば
よけいに興奮したいじゃないか。

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