Into the Wild
水曜日, 11月 19, 2008 at 5:29午後 
読書感想文って自分から書きたいって思って書くもんじゃない気がする。
誰かに書かされて書くものなのだ。
その誰かが、
学校の先生でも、担当編集者でも、
コンテンツがアップされていないウェブサイトでも。
書かされて書いた感想文のほうが
僕はなぜか信用できる。
大抵、逆だ思われているけども。
ショーン・ペン監督の新作「Into the Wild」を観る前に
原作を再読しておこうと思って東京中の本屋さんで英語版を探した。
大学の時に一度読んでいたけど、
あの時は、英語で読む時間がなくて
その上お金もなくて
マンハッタンの紀伊国屋で
日本語版を半日立ち読みしたのだ。
っていうことで、
英語版「Into the Wild」を探した。
ある意味でリベンジ的想いもあったわけで、
「Into the Wild」に関する感想文を書きたかった。
なのに、この感想文(というか、多分その体裁すら保てていないもの)は
「Dispatches from the Edge」という
アンダーソン・クーパーの著書に関してへと
大きく変更することになってしまった。
クーパー氏はCNNのアンカーマン。
多分、現在のアメリカのTVジャーナリストとしては
特筆して有名で人気がある人だ。
クーパー氏が参加する講演会やフォーラムはチケットが手に入らない。
(もともとあんまり参加しないし。)
「Dispatches from the Edge」はクーパー氏の自伝であり
特派員としてのレポートである。
戦争や内戦を人災。
地震やハリケーンは自然災害だとして。
どちらにしても、
災害現場に身を置くことで自らの「生」や
家族の「死」を感じてきた著者の言葉と言葉の間。
いわゆる行間に込めたってほど隠されてもいない、
案外おおっぴらな事実の数々。
例えば、
人の死はいうほどドラマチックなんかじゃないってこと。
誰かの死を、
ドラマチックに描き、
伝えているのは、
感じているのは、
カメラであり、
言葉であり、
つまりは人であるってこと。
災害と死のあふれた社会は混沌としているけど
同時に日常でもあるってこと。
残酷な少年兵は被害者か加害者かって問題みたいに
単純な答えなんかないってこと。
全ての死が、全ての悲劇が、僕たちにとって平等に悲しいわけじゃないってこと。
家族の死と災害現場の無数の死をいったりきたりしながら
たぶん、ジャーナリズムの極みと限界が
この本には築かれている。
人の言葉は発せられた瞬間に死んでいるって。
すっごく逆説的で矛盾したことを
あっさりと書いちゃっています。それって脱帽です。
で、
「Into the Wild」の主人公は死んで言葉を失った若者だと思っていた。
でも、「Dispatches from the Edge」を読んだ時、
その主人公は著者であるアンダーソンなのか、
それとも彼が見つめた無数の死者たちだったのか、
正直わからなかった。
そうであるならば、「Into the Wild」の主人公もまた、
登場する全ての死者たちなのかもしれない。
いやもっと言えば、
言葉が発せられて瞬間に「死ぬ」ものであるならば、
本当は旅の終わりに社会復帰という名の「再生」を果たす筈であったかもしれない
クリス・マッカンドレスについて、
そしてその彼を襲った最終的なんだけど読み始めて直ぐに知らされる死について、
そして他の者の死について、
尋ねられた人が語る全ての「死んだ言葉」もまた
物語の主人公だったのかもしれない。
この本の中に横たわる無数の屍。
その有り様から目をそむけずにいるのははっきりいって難しいぞ。
だから、読み終えて、救いや慰めをドラマチックに描くのもまた、人。
ショーン・ペン監督の最大の功績は
人として抱く、当たり前の願望から逃げなかったこと。
佐藤寛孝 |
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