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水曜日
9052007

アルゼンチンの泣かせババア

「切ないほどに感動的な今年オススメの一本」とされる映画を見たり、「100万人が泣いた!」らしい小説を読んだりしていると、最初の数十分あるいは数十ページまでいったところで「死んじゃうキャラ」というのが誰なのかが、なんとなく分かってくる。(あぁこの人そのうち死ぬんだろうな)とか(この人は途中で消えていなくなりそう)などと、ストーリーが展開するにつれてちょっとづつ感じとれてしまうのだ。

そういう人物は、たいていちょっと色白でひ弱だったり、台詞その他演技に気力や特徴があまりない、か、あるいは逆に、自信満々で危なっかしいくらい活き活きとしていたり、愛おしいほどに理想的な女の子だったりする。でも、最終的にはちょっとした事故や重い病気で命を落としてしまうか、ふいに引っ越してどこか遠い関係のないところへと行ってしまうか、あるいはそのまま二度と登場せずにストーリーが終わりその行方が分からなくなったりする。そんないわばありきたりな展開が醸し出す喪失感が、人々の目に何度でも涙を浮かばせるのだろう。もちろん私のようなクールな読者の場合は、そういった見え透いた「お涙頂戴」的な展開は少しため息をつくくらいで案外軽くスルーできてしまうのだが。

 

「母が死んだ時、 」という言葉で突然に始まるこのストーリーは、しょっぱなから「死」の匂いがぷんぷんとしている。まぁ「死」はよしもとさんの作品にはよくある題材だし、そもそも主人公みつこの父親が墓石作り屋なんて縁起でもない職業なもんだから、絶対に誰かは死ぬんだろう、と早い段階で覚悟は決めていた。(さて、誰が死ぬんだ?)と、半ば当てっこゲームでもするような気持ちで読み進めた。

10 ページ目に初めて登場するその人は、最初からインパクトがものすごい。だって、名前が「アルゼンチンババア」なんだもの。もちろんちょい役なんかではないが、みごとなマドンナってわけでもない。彼女は、ひ弱でも理想的でもない、ただの、南米かぶれの偏屈ババアなのだ。 死を背負ったお化けみたいなその彼女は、すでに死んでいるようで実際はいつまでもしぶとく生き続けるように思えた。

しかし、みつことその父にとって、不幸中の幸いともいえる展開のすぐあとに知らされるババアの突然の死に、私は不覚にも涙してしまったのだ。映画館で「セカチュー」を見にいって長澤まさみが病室で息を引き取った時だって涙一粒流さなかった、この私が。六本木の交差点で信号待ちしながら読んでいたら、青になったのも見えないくらい本で顔を隠してそして気づいたら、ポロリ、と涙を流していた。本で泣いたのは、本当に久しぶりだった。 こんな可愛くもなんともないよれよれなオバハンの死がふいに私の感情を揺さぶったのは、なぜだろう?

それは、私がババアにいつまでも生きて欲しくなってしまったからなのだと思う。その霞のような存在を否定できるものは何もないように思われた。それほどまでに色濃かつ得体の知れないババアとして立ち現れるのだ。亡くなった母親との思い出、頼りない父とのやりとり、そして従兄弟とのちょっとしたいろごとなどについて語るみつこの流れるような言葉の背景に見え隠れする彼女の存在は、さりげなく確かにいつまでもそこにありそうに思えた。そしてそれは恋しく、愛おしい。なぜかはよくわからないけれど、いつまでもそこにいて欲しかった。いるはずだった。死んではいけない。そんなふうに思わされるくらいのババアなんだ。見たこともないのに鮮やかに思い出される、可愛くもないあの汚らしいルックスでも。それは著者本人の、かがみに移った姿の断面なのかもしれない。あるいは私のそれかもしれない。本当は私たちひとりひとりのなかに、ちょっとづついるのかもしれない。だから、アルゼンチンババアが死んだときに私の中のどこかも、ちょっとだけ死んだのだろう。

 

アルゼンチンババアは生きていたし、そして確かに死んだ。本のページを飛び出して、交差点で立ち尽くす私の前で力強く生きはっきりと死んだのだ。

これこそが映画や小説が持ちうる最高の力なのではないかと、涙をふき信号をわたりながらうっとりと感じた。

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Reader Comments (1)

再考:

このお話の語り手みつこの、18 歳の女の子に似つかわしくないほど大胆なものごとの書き方と冷静な状況の捉え方は、子供のような自由奔放さを持ち合わせる彼女の父親とその不思議な相方アルゼンチンババアの生き様を描くのにはどうも釣り合いがとれていないような気が最初はするのだが、しかし読んでいくうちにそのアンバランスはむしろ安心感に変わる。とかく無茶苦茶なことが整然とまかり通ってしまうために家庭も世間も法律も何もあったもんじゃない、普通に考えれば思春期の女の子にとってものすご~く過酷な状況になっているはずのに、なぜか、その景色がちっともどろどろとしたものにならないのは、私たち読者がその目を通して覗いているみつこがあまりにも淡々と、そして凛としているから。

読み終わってから思い出されるのは、悲劇に見舞われた家族をさらに複雑にし破綻させた偏屈ババァの当然ともいえる死ではなく、「ユリ」という一人の女性が生き抜いた美しい愛の証だけだ。そしてそれを私の中に描いてくれたのは、みつこなのだ。

みつここそが、本当の意味でこの物語の支柱なのだと思う。

9月 6, 2007 | Registered Commenter濱地 絵里

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